日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎人間でも幽霊でもない「何か」

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人間でも幽霊でもない「何か」の画像

◎人間でも幽霊でもない「何か」

 あまりうまい説明のつかない画像の中には、時折、人間でも幽霊でもないような姿が混じる。

 この時期は、一年の中で最もあの世が騒がしい時期なので、今日はそんな不可解な妖怪状の「何か」について、ここ数年分を抽出してみた。

 まず前提とすることは、私は元画像の5メガのものを見ているが、ウェブ上の画像サイズは30キロからせいぜい100キロだ。見える精度がだいぶ異なるので、念のため。

 

①悪魔アモン

 本人の発音に近い表現をすると「ウモン」になる。

 コイツはおそらく、私が子どもの頃から時々、関わって来た者だと思う。

 成人してからは、夢の中にも度々現れた。子どもの姿だったり、その時々で様々だが、言葉の使い方で同じものだと分かる。大体は、若い女性の姿をしている。

 あながち敵でもないようで、私に悪さを仕掛けたりはしない。

 「アモン」がキリスト教の悪魔の名前に近いので、少しからかう意味で「悪魔アモン」と呼んでいる。

 写真に撮れたので、想像上だけの存在ではなかったようだ。

 今は近くに居ないが、おそらく半島に出張している。

 

②蜘蛛の手足を持つ妖怪

 これはさすがに半信半疑だ。煙(幽界の霧)から実体化する中途のもので、顔付近はあまり定かではない。だが、職種のような腕とその先の手には、細い指がついているから、手足の先はきちんと存在しているのだろう。

 いずれ鮮明なものが撮影出来るかもしれぬが、あんまり好ましい相手ではなさそう。

 

③猫わらし

 「うまく説明のつかない画像」は、頭の中が空の状態の時に撮れやすい。

 この時は、ただルーティンとして前を撮影していた。

 前には数人の大人がいたが、子どもはいなかった。

 画像を開くと、左端の男性の横に小さい「何か」が立っている。

 実際には誰もいないことが確認できるから、専らガラスにのみ映った影になる。

 拡大してみると、到底、人間とは思えぬ容貌の「何か」だった。

 何となく「猫」を思わせるので、とりあえず「猫わらし」と仮称することにした。

 猫の変化(へんげ)なら、狛犬派の私との相性は悪くない。

 この神社で猫のトラが「使い」のように働いていたことと関係があるのかもしれん。

 トラは、最初に神社を訪れた参拝客が、かつて私にしてくれたように、参道を先導して神殿まで案内するのを一度だけ見たことがある。

 その時は「相手を選んでこうしているのか」と思ったが、猫わらしみたいな存在が指示していたのかもしれん。

 

④人の姿を歪める「何か」

 この画像を最初に開いた時には、参拝客の列の真横に「巨大な化け物」が立っているように見えた。幽霊でも、見えるサイズが大小変わることはよくある。

 しかし、よく見ると、姿自体は「カメラを構える私」をデフォルメしたものだ。

 だが、私は参拝客の後方二十㍍くらいの位置にいたので、前の人よりも小さく映っていなければならない。もしこれが私の姿なら、私は二㍍を超える身長を持つ。

 要は、シェイプ自体は私のを利用しているが、実際は別の者だと見なす方が分かりよい。幽霊なら「その場にいる者の姿に似せる」ことがあるわけだが、コイツはどういう者なのかがまるで分からない。

 この日は終日、「人影だらけ」で、この世とあの世が重なった日だった。

 

⑤小さい爺さん

 やはりボケっと何も考えずに撮影した時のものだ。

 前には二十二三歳の女性が二人だけで、子どもの類はいない。

 画像を開いてみると、女性の横に小さい人影が見える。

 これは奉納箱の前だから、ガラス映像ではない。実体として写っている。

 頭のかたちや肩によれば、恐らく老人だ。

 奉納箱の高さが一㍍ちょっとで、女性たちは、ステップを一段下がったところにいたから、この老人の身長は、やはり一㍍前後なのだろう。小さすぎる。

 ここまで鮮明ではないが、時々、数十㌢の背丈の人影らしき何かが写ったりするから、何かしら根拠のある存在なのだろう。

 

 もちろん、これくらいの背丈の人間も、この世界には存在している。私はタイで身長が五十㌢程度の僧侶を実際に見たことがある。

 だが、その時、女性二人の他に誰もいなかったことを確認している。「可能性」ではなく、目の前の「現実」を見ている。