日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「P16 南部中字 極印替」

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南部天保中字と南部天保接郭様

◎古貨幣迷宮事件簿 「P16 南部中字 極印替」

 南部天保当百錢について調べるために、短期間で本銭、浄法寺銭を問わず三百枚以上を集めたことがある。当初大字・中字の本銭は二万五千円程であったが、業者を通じ出物を総て買ったので、たちまち値段が上がり、三万七八千円までになった。

 自身の品で三百枚、他に他の人の収集品を見せて貰ったので、恐らく八百枚くらいは検分して一応のリポートを幾つか製作したが、それがひとまず終了した。

 その後、今度は処分に掛かり、二十年がかりで売却したが、今は普通品で概ね二万円強くらいのようだ。これらの動きをもたらした犯人は私だった。

 そして、その処分も最終局面だ。南部天保の本筋である「大字」「中字」では、これが最後になった。

 役付きの希少品でなく、この中字を残していたのは、極印が面白かったからだ。

 輪側極印について、新渡戸仙岳は「中央にキ状のしるしのある桐葉状」の極印と「六出星極印」の二種が各々数種ずつあったと記している。

 『岩手に於ける鋳銭』(昭和九年稿)には、これ以外の言及がないのだが、田中銭幣館の報告に「盛岡銅山銭の極印」の種類として、五六種を掲示するものがあり、これには「中央に島のある極印」が含まれていた。

 前掲『岩手にー』では、「最初は銅山銭と天保銭を区別して使用していたが、後には区別なく使うようになった」と書かれている。

 現品について確認すると、銅山錢用の「六出星極印」が打たれた「小字」が現実に存在しているので、新渡戸のこの部分記述は概ね現品の存在状況に合致している。

 仮に銅山錢と同時期に作られた品であれば、ほぼ「栗林座で作られた天保銭」と特定出来ることになる。

 その意味で「銅山銭の極印」と「天保銭の極印」の双方にまたがる形状を持つ極印は、資料的に大きな意味を持つ。

 よって、この品を最後まで所持していたし、ずっと探していたが、もちろん、このことの口外はしなかった。(ま、集め難くならぬようにという思惑による。)

 

 それ以前に、銅山銭の最初期のタイプは、「薄肉小様で黒っぽい金色」だと言われて来たのだが、その小様銭の地金色にこの品は非常に近似している。

 栗林の当百錢が、何故に薄く小さくなったかというと、やはり銅材の調達との関係による。幕末当時の盛岡藩内にある銅山で正常稼働しているのは、事実上、尾去沢銅山だけで、鹿角から栗林まで運ぶにはちと遠すぎる。

 栗林とほぼ並行し、浄法寺山内でも当百錢の密造が行われるわけだが、双方の銭座の鋳造枚数が十倍ほどの相違があるのは、主に「銅の調達」の利便性によったものだろう。

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南部当百錢の輪側極印(一例) ※右上図は借拓である。

 ちなみに、ここに掲示した「六出星極印」は「六出星極印」なので念のため。

 明治三十年以降、岩手史談会において認識されて来たのは、この型が「六出星極印」だということで他のものではない。「八つ手様」という呼称が便宜的に使われるようになったのは、昭和五十年代以降だ。また、この他のどんな名称も不適格である。

 こういうところで「原典に当たったかどうか」が知れるので、注意深く対応する必要がある。収集家の中には、原典に眼を通したことがないのに、解説記事(しかも誤っている)だけを読んで、新渡戸らを批判的に述べる者がいる。

 某『贋造史』など、地元の収集家のリポートのあやふやな箇所を引き延ばしたものだから、まともに受け取ってはならない。

 「まずは原典にあたってからの話だ」とここでも記して置く。

 

 記述上では、栗林座で一万枚(別資料では三万枚)、浄法寺山内で三十万枚の当百錢が鋳造されたとされるが、実は今でもどれが栗林座製で、また山内座製なのかがよく分からない。

 唯一の決め手が極印しかないのだが、これまでで「どうやら栗林製だろう」と見込まれた品は、NコインズのO氏が平成十年ごろに北上で出した百枚ほどの天保銭だけだった。

 既に現品を手放したが、この時の品が「薄肉小様」で、あまり出来の良くないものばかりだった。(逆に見栄えのする立派な品は、概ね浄法寺から出ている。)

 地金が黒く、ここで掲示した中字の色に似ているから、まずはこういった黒っぽい古色を持つ南部天保に目を付け、次に極印を調べるべきだ。

 もし探し出せれば、それだけで、ひとつの業績を作れる。

 

 ちなみに、参考掲示した「接郭様」は、たまたま雑銭から出した品だ。

 ひと目で「これは不知品ではなく南部天保」と見て取れるのは、P16と地金と砂の特徴、および輪側処理が近似しているからだ。

 盛岡藩水戸藩より砂づくりの指導と、種銭の供与を受けており、水戸由来の銭種が複数ある。当百錢についても、短足寶、濶字退寶の写しがあるが、恐らくは試験的に鋳造したものだろう。

 この品は、本座の型ではなく、接郭が型母体として利用されたようだ。

 ここで初めて気付くのだが、南部小字は接郭の書体に似たところがあるということだ。やはり、作風に水戸の影響が強く出ているらしい。

 

 購入時につい話してしまったのが影響したのか、P16は通常の価格よりかなり高額だった筈だが、当人的には「見っけもの」だと思った記憶がある。

 「六出星天保」やそれに準じる「銅山極印の天保」なら、銅山銭に匹敵する史料価値がある。小字の六出星なら割とある品だが、中字の六出星は一枚か二枚しかなかったように記憶している。

 

 例によって、一発書き殴りで推敲も校正もしないので、表現に難があると思う。

 

追記)栗林座の当百錢については、銅山銭について一万枚(または三万枚)と記述され、天保銭についての記述が無いのだが、一千数百人規模の「銭座内」で便宜的に使用する代用貨ならそもそも一万枚も必要がない。要は「銅山銭」とあるのは「当百錢」のことだ。