日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎次第に「怒り」が鎮まる  (一年前の振り返り)

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令和元年十一月二十九日撮影

◎次第に「怒り」が鎮まる  (一年前の振り返り)

 一昨日は「毎度の展開」に、怒りで我を忘れるくらいの状態になった。

 それもその筈で、直接的な影響がある。昨日は体調が悪く、丸一日横になっていた。

 一時は血圧が70くらいまで下がったが、さしたる理由が思い浮かばない。もちろん、それも、「医師たちには」ということだ。

 私の方には思い当たることがある。

 

 ゆっくり休んだので、少しましになって来た。

 それと共に「怒り」も少しずつ鎮まった。

 あの女性にしてみれば、「どうしてよいか分からず錯乱している」状態だろうから、目の前に誰かがくれば飛び付く。おまけに「自分のことを見て、それと察知してくれる」のだから、ずっと後をついて来るのも当然だ。

 ま、仕方なし。

 

 これは一年くらい前に分かったことだが、私の可視域は普通の人より赤外線側に広くなっている。このずれが割と大きいので、「私にははっきり見えるものが、他の人にはまったく見えない」という事態が頻繁に起きている模様だ。

 これが事実なら、いくら「ここにこれがいる」と説明しても、他人に伝わるわけがない。

 「どうやっても見えない」ものは「存在しない」のと同じだから、多くの人にとって「(幽界は)存在していない」ことになる。

 それなら詳述してもあまり意味が無いので、今後は最小限の範囲に説明を留めることにした。

 もちろん、赤外線域が少し見えるのは、特別な能力でも何でも無く、普通のことだ。

 人には近視の者も老眼の者もいるが、そういうのを「能力」と言う人はいない。

 それが「能力」に見えるなら、「自分自身のことがまったく見えていない」ことを意味する。

 

 さて、現在進行的には分からなかったことでも、時間が経つと、状況がよく見えるようになる。そこで、一年くらい前の「説明のつかない画像」を再度点検するようにしている。

 掲示画像は昨年の十一月二十九日のものだ。

 様々な要素が入り交じっているので、ここでは少数に留めて言及するものとした。

 

 ガラス映像には、時々、「この世ならぬ人影」が映る。

 そのことの理由は専ら光学的な要因だ。鏡では一方向の反射光しか映らないが、ガラスの場合は、透過するものがあり、反射するものがある。光が錯綜することで、おそらく「波長が合うタイミング」が生まれるのだろう。

 このため、ある一瞬、そこにはいない筈の人影が写真に写るようになる。

 こういった変化・変異は主に赤外線側でのことだから、肉眼で確認できる人は僅かなのだが、カメラの捕捉範囲は人間より広い。だから写真だけに写ることになる。

 これは物理的要因によるもので、「スポット」とか「怨念」「因果」は関係なし。

 幽霊はどこにでもいるが、検知し難いだけのこと。 

 今なら私の隣にも立っている。

 

 画像に戻ると、神殿での最初の画像では、私の右後ろに、女性の姿がある。

 前述のとおり、これが「他の人にはよく見えない」のだということは、最近分かった。

 実際、詳細に拡大してみると、そこに出て来るのは、木の葉の重なっている様子だけだ。

 普通の人が見えないのも当たり前だ。多くはその葉の方を見るが、私はその前の「光」の方を見ている。

 幽界はガスにも似ているし、波のようでもある。霧が時々かたちを変えて、うっすらと実体化する。物とは違うから、物を見る時の見方では逆に見えにくくなる。

 物の前にある「光」の中に像がぼんやりと浮かんでいるのだ。

 

 さて、この女性の衣服には特徴がある。

 あまり見慣れない服装なのだが、しかし、ここは高麗神社だから、韓(高麗)服ということだろう。催事の時にだけ見られる服装だ。

 (ちなみに、迷惑が掛からぬように名称を付けるのを避けて来たが、別段忌避する理由はない。あの世に接する局面が増えるのは、ここが「救われたい者が集まる」良い霊場だという意味を示す。)

 

 同じ位置で二枚目を撮影したが、この時には前に一人だけいた参拝客が去った後で、その場には私一人だ。

 しかし、画像には私の右横に女性の姿がある。

 撮影当時は、私よりも大きく写っているので、「前に立っている」と見なしたのだが、よく見ると、ほとんど横にいる模様だ。私の右肩に前後するくらい。

 ま、幽霊はこの世の者と違い、大きさはあまり関係がない。

 この女性は、おそらく高齢だが、この人もやはり韓服を着ている。

 

 昨年の疑問は、一枚目の女性とこの女性が別人のように見えたことだ。

 だが、一枚目の女性の背後にも複数の女性が連なっていたようだから、恐らくはそのうちの「誰か」なのだろう。

 これで納得した。

 

 こういう画像はその場にいないと「場の状況」が分からない。

 たまに、「たまたまそこに居た人が写り込んだだけでは?」と思う人がいるようだが、そういう人は「韓服(今のではなく古い)を着た人に、いつ会ったか」を考えれば、答えは自ずから明らかだ。

 可能性はあるが、一部の街に住んでいる人以外は「現実的にはあり得ない」ことになる。

 この神社でも、祭礼の時以外に見掛けることは無い。

 

 「そこには居ない筈の人影」の表情には、いつも驚かされる。

 死んでもなお、この世を徘徊しているわけだから、「断ち難い思い」や「恨みつらみ」、「怨念めいた感情」を持っていそうだが、実際には、ごく普通の表情をしているのだ。

 この老婆は「あれ?」みたいなことを感じた時の顔つきだ。

 たぶん、ごく普通の人でも、死んだ後に幽霊となって留まる時間があるのだろう。

 いずれ痕跡がすっかり消えてしまうから、「自我・自意識は死後も残っているが、時の経過と共に次第に消失する」と見るのが適切だと思う。

 

 ちなみに、右側には首を吊った女性が写っている。

 こちらを確認できる人は少ない。

 自死した者はどういうわけか死の直前直後の姿のままでいることが多い。

 「煩悶」があまりにも強すぎ、それに縛られているのかもしれぬ。

 看護師のようだが、何故自死するに至ったのだろう。

 「私だけに見えるように」写っていることの意味は、私に対し「助けてくれ」と呼び掛けているということだ。

 ま、私は病院に縁が深く、今や人生の半分以上を病院の中で暮らしている。

 

 それも仕方なし。きちんとルールを守れば、穏やかな流れに乗せて上げられる。

 死んだ者に手を貸すのは、私の務めの一つ。

 かたや生きている者の方は「自力更生が基本」だから、滅多に助けない。

 生きている人間まで相手にしていられないので、なるべく傍には来て欲しくない。

 ということで、今後もタイガー・ジェッ党で行くことに。