日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「この世」と「あの世」の接点 「実際にはいない筈の人影」 その3 様々な出現パターン

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◎「この世」と「あの世」の接点 「実際にはいない筈の人影」 その3 様々な出現パターン

 実際にはそこに人はいないのだが、画像には人影が残っている。

 その幾つかのパターンについて現時点で分かり得ることを整理してみた。

 

(1)「通行霊」①②

 街中ですれ違う通行人と同じで、すぐ近くを通るのだが、相互に関わりを持たないケースがある。そういう人影を「通行霊」と呼ぶことにしている。

 

 ①は神社の神殿の前で、ガラス窓に映る自分自身を赤外線カメラで撮影したものだ。

 四五年前のことになるが、境内を撮影したところ、たまたまガラスに映る自分自身の姿が画像に残っていた。その時は私一人だったのだが、ガラス映像には他にも人の姿があった。以来、時々、神社に参拝しては、自身を写すようになった。

 ①の時も、私の前後に人はいなかったのだが、左側に女性が拝むさまが見えている。

 「たまたまそこにいた人が写り込んだのでは」と思う人が多そうだが、女性のサイズから見て、奉納箱のすぐ直前でなくては、この大きさにはなれない。

 要するに「大きすぎる」のだ。

 

 ➁は「大き過ぎる」繋がりになるが、これも通行霊だ。

 既に幾度も公開しているので、詳細は控えるが、当時はポピー畑の人込みの中を家人が歩くところを撮影していた。その中の一枚だけがピンボケていた。

 よく見ると、家人の体を通り抜けるように、「巨大な女」が歩き去るところだ。

 上半身だけだが、180㌢は優に超えているだろう。

 ま、あの世の住人の場合、サイズが替わることはよくあり、小さくなったりもする。

 

 いわゆる心霊写真では、頻繁にピントが合わなくなるのだが、おそらく自動ピント装置と波長域の関係で生じるものだ。カメラが捉える光の波長域は人間の眼より広い。

 急に「通行霊」が視野に入ったので、自動調整が動き始めたということだろう。

 

(2)声を掛けて来る ③④⑤

 ただ単に「そこにいる」だけではなく、こちら(私:撮影者)に声を掛けて来るケースだ。

 ③は右側に高齢男性の姿が見えるが、こちらに指を指し「お前は誰だ」と訊ねている。その場で実際に聞こえるわけだが、後でその時の画像を開いてみる時にも、同じ声が聞こえる。

 この画像はシルエットしか見えぬわけだが、それが幸いしている。手元のでは顔つきがうっすらと見えるが、薄気味悪い表情だし、そもそも顔が二つある。

 

 ④は画像での目視確認がかなり難しい。

 メモリの大きな手元の画像でも、ごくうっすらとしたものだ。

 衣服は見えるのに、頭が無いので不思議に思ったが、頭は少し上の方に離れていた。

 「うう」とも「ああ」ともつかぬ呻き声を出した。

 

 ⑤は薄ら寒い画像になる。

 たまたまレストハウスの前で写真を撮ったのだが、ガラス窓に表の石垣が映っていた。

 石の幾つかが女の顔に変じており、私の方を見て、「助けて」と叫んでいる。

 水の中にいて、浮きつ沈みつしていたわけだ。

 その状態で、私のことを発見し、助けを求めてきたのだから、おそらく助け上げられるのは私だけだろう。

 そう考え、以後、一年半ほどこの地に通い、月に数回ずつお焼香をした。

 今はきれいになり、異変は起きなくなったから、この奥のあと一箇所を浄化すれば、かなり良くなると思う。

 ちなみに、画像の中央に青いパーカの女性が見えているのだが、この女性も現実には存在しない。

 

(3)視線がある

 周囲二誰もいない筈なのに「誰かが自分を見ている気がする」経験は、誰でも一度や二度はあると思う。実はそういう時には、実際に何者かに「見られている」と思った方がよい。

 そういう時に、気になる方角を撮影すると、波長を合わせやすい人であれば、画像に「眼」だけが写っている筈だ。

 画像の隅から、じっと見詰めているのだが、その視線が見ようとしているのは、「自分が見えているかどうか」ということだ。

 よって、多くは同じ画像の中に、その者の姿があることが多い。

 いわゆる心霊写真が「たまたまそう見えた」のではなく、実際にあの世の住人が映っていたものであるかを確かめるための「最も簡単な方法」は、「画像のどこかに眼が写っている」というものだ。これがあれば疑いなく「あの世」に関わる画像だ。

 眼そのものが写っている画像は最近も公開しているので省略。

 

 ⑥は、ある滝で景色を眺めていると、視線を感じたので、すかさず通常撮影と赤外線撮影の両方を行ってみたものだ。

 通常撮影では何も見当たらなかったが、赤外線の方にはそれらしきものが写っていた。ただ、「声」が無いし、目力も無いから、「気のせい」「思い込み」と見ても差し支えない。

 

 ⑦は、左端に女性の頭だけが出て(不鮮明)、私に「助けて」と叫んでいる。

 胴体の方は半透明で、後ろの草が見える。

 ここはまあ、姿、声とも「気のせい」の範囲だ。

 

 ただ、後になって気付いたが、中央の女性(実在)がガラスに映っているのだが、その前後にうっすらとっ人影が見える。

 隊列の間に女性が入り込んで居る格好だ。

 この女性が自身に関する問題を抱えており、それを祈願しにここに来たのは想像がつくが、周りの者たちもそれに関わろうとしている。

 

 これは助言だが、神社に参拝する時には、「中央を通ってはいけない」と言われる。

 「そこは神様の通り道だから」という説明が為されるわけだが、神様だけでなく、拝みに来た別の者(あの世の)たちも通るので、神殿へは真っ直ぐ上がらぬ方が良さそうだ。

 私は、左端を通り、迂回しながら神殿の前まで行き、そこで手を合わせた後は、やはり左側を歩いて退出する。要するに時計回りということ。

 

 今回のものはあやふやな部分を残しているので、様々な言い訳がつく。

 だが、「気のせい」や「思い込み」という逃げ道がない場合も生じる。

 この続きは少し内容が重くなる。