日刊早坂ノボル新聞

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◎存在しないはずの人影 (ほぼ二年前の振り返り)

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二〇一九(平成31)年一月撮影

◎存在しないはずの人影 (ほぼ二年前の振り返り)

 画像はほぼ二年前、平成31(令和元)年の一月に撮影したものだ。

 窓ガラスに「現実には存在しないはずの人影」が映っていることに気付いたのは、ここ数年のことだ。参拝の記録を残すために、神社境内の撮影を始めたのだが、そのなかの画像にたまたま写っていた。

 当初はそれが「存在していない筈」だということに確信が持てず、自分自身を疑ったが、事前に撮影環境を確かめてから撮影しても写る。以後は注意深くなったので、むしろ頻度が増している。

 また、この神社でなくとも、人込みや常時人の集まる場所では、光の量と角度にもよるが同じように写る。

 

 この日は初詣の時期を過ぎた頃に神社に行ったのだが、やはり参拝客はいなかった。

 神殿の前で連写していると、その時点では気付かなかったが、最後の画像に二人組が写っていた。

 ガラスの継ぎ目が近くにあるが、片側に二人分の人影が出ているので、二重映りではなく「二人組」だ。

 周囲に誰もいないことを確認してから撮影したので、少なからず驚かされた。

 

 後ろの、たぶん「男」の首から上が崩れているか、あるいは消失しているので、「この世の者ではない」と分かるが、今見ると、その辺に「女(または女たち)」の顔が出掛かっているから、その影響で「消失した」ということだろう。

 ひと言で言えば、「幽霊」なのだが、幽霊譚にはありがちな怨念めいた情念がまったく感じられない。

 この画像をきっかけに、次第に「恨みつらみが残っているから幽霊になる」わけではなく、「ごく普通の人でも、死ねば幽霊になる」ことが分かって来た。

 

 ちなみに、当時も公開したと思うが、一二枚目を添付しなかったように記憶している。状況証拠を前出ししても仕方が無いからで、「確かにそこにはいなかった」ことを示すために取り置いたのだが、よく見ると小さい異変は各所で出ていたようだ。

 都会ですれ違う「通行人」と同じで、交流を持たぬことを前提とする「通行霊」は、いくら現れても、どのように現れても、まったく影響がない。

 「幽霊」を「怖ろしいもの」として捉える見方が「根本的な誤りを冒しており」、「実際には実体・実態ではなく、単に想像や妄想を語って来た」ことを知るきっかけになった画像だ。

 「眼を開いてくれた」という意味で、今ではこの二人組に感謝の気持ちすら覚える。