の◎「この世」と「あの世」の接点 「実際にはいない筈の人影」その4 同じ女がついてくる
さて、「あの世」とは何かということに関連して、徐々に核心に入って行く。
画像はここ数年の同じ性質のものを系統的に並べたものだ。
結論を先に書くと、ここには「同じ女」が写っていると思う。
①は四年前に温泉旅館の玄関で撮影したものだ。 家人を撮ったのだが、ガラス戸の奥の方に、小さい人影が映っている。
女性で髪は肩まで。白い服を着ている。
この旅館は一部の者にとっては、「きわめて強い霊場」で、私はここの館内に入ると、常時「かさこそ」と呟く声が聞こえる。お風呂に入っている時には、一層、声が大きい。
でも、そういうことには慣れているので、「そんなもんだ」と思う程度だ。
直接的な影響がなければ、気にする必要は無い。そもそも、この世のあらゆるところが「霊場」なわけだ。
➁は割と最近で、昨年の三月のものだ。夕方近くに、神社の前で撮影したのだが、私の周囲に影が見える。拡大してみると、白い着物を着た女が背中にぴったりくっつくように覆い被さっていた。
これが「生身の人間でない」のは、その大きさで分かる。
かなりキモい状況で、ホラー映画並みだ。実際、「取り憑かれる」とか「憑依」とかいう類の言葉が思い浮かぶ。
だが、後で分かったが、そんなのは「あの世のことなどまったく知らぬド素人」の戯言だった。
③は再び冒頭の旅館①を訪れた時のものだ。
同じ玄関の前で、自身の姿を撮影したのだが、背後に女が立っている。
光の加減で、ごくうっすらと見える程度なので、多くの人は「気のせい」だと見なすかもしれない。それでも、私にとっては意味が全然異なる。
私は現実に後ろに立たれているので、ひとの気配でそれと分かる。
誰かが背中にくっつく位置で寄り添ったら、殆どの人はそれと気付くが、私もそうだった。
④は昨年九月のもの。たまたま、数日前にこの施設の前で撮影をしたのだが、高齢男性の顔がまともに写った。そこで、ご供養を始めたのだが、次に訪れた時に撮影すると、どうも私の背後に女のような姿が見える。
「肩までの髪に白い服」と、もはやお馴染みとなっている女の姿だ。
後ろに看板があったりするから、単なる錯覚かとも疑ったのだが、右手の先は鮮明に見えている。背の高さは180㌢を超えているだろうから、これまでの女の姿に合致している。
一年くらいの間は「同じヤツについて来られるのは気色悪い」と思っていたが、何をするわけでもなく、ただ居るだけだ。私が台所に立っている時に、カウンターの裏に立っていることもある。これは手や足の一部を目視したりもするので、「気のせい」だけではないだろう。
精神面で私の軌道を修正してくれているところもあるので、むしろ「仲間」のようなものだと思う。
もちろん、「あの世の住人」は、ただ見ており、それとなく示唆するだけだ。
生きた人間でも同じで、「気の通じる」者はいる。
あの世に社会は無いから、「守護霊」みたいなものはそもそも存在しない。大体、「ナニナニ霊」みたいな呼び方は、ひとの願望が創り出したものだ。
こんな無駄知識や宗教観・世界観などは捨てた方がよい。
冷静に実態を観察して行けば、はるかに多くのものが得られる。
「謙虚であること」「死者に敬意を示すこと」「怖れぬこと」を守れば、自ずから見えて来るものがある。一般人にはお経も祝詞も要らず、ただ自分の言葉で語り掛ければ、こころは通じる。