日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

 能仁寺の山門の外に、人目につかぬ場所に仏さまが立っていたが、どうやらこのお寺とは由来が違うのか、周囲は荒れ加減だった。

 あまりお線香を供える人が多くないのか、焼香台には灰が見えず、水が溜まっていた。

 「こういう感じのところは警戒が必要だ」

 ひとの信仰心に支えられぬ地蔵や不動の周囲には、不浄の者が寄り憑きやすい。

 衆生を分け隔てなく救済するのが地蔵や不動なので、これを縋る者が多くなる。ところが、それらの背中を押し、先に進めるのが人々の信仰心だ。周りに集まってはみたが、為す術もなく、その場にとどまる者がいるから、「気を付けろ」と言うわけだ。

 人が滅多に来ぬところに、突然、供養してくれようという者が現れれば、誰でもその者に飛びつく。ご供養を施しているのに、逆に不浄の者が寄り憑いてしまうという結果を生んでしまうかもしれん。

 お焼香をする間、やはり、「誰かが見ている」感じがするので、早々にその場を離れた。

 

 お寺を出て、神社に向かったのだが、何となくそわそわする。

 セルフチェックをすべく、幾枚か撮影したので、駐車場で開いて見ると、最初の一枚に良からぬものが出ていた。

 この髪の毛がクシャクシャッと固まったようなヤツは、もの凄く性質の悪い悪縁だ。

 誰彼なく悪さを働こうとする。元は女だったかもしれぬが、何十何百と凝り固まったので、今は黒い塊にしか見えない。

ちなみに、こういうのは中を覗き込んだらダメだ。こっちが興味を持って覗くと、それが相手の心に響く。

 私の肩口に女性の顔が出ているが、たぶん、巫女さまだと思う。下を向いているので断言はできぬが、巫女さまが顔出しまでして支えているのは、前にいるヤツが相当性質の悪いヤツだからということ。

 悪縁が近づいた時には、必ず巫女さまが現れるが、私みたいな者が無防備に悪縁に近づけば、たちまち取って食われると思う。

 もはや悪霊と言っても良い存在なのだが、コイツはそれこそ地獄の底にいるような者だから、コイツが外にいるのであれば、それこそ「地獄の釜の蓋が開いた」状態だと思う。

 まともに写ったのは、最初の一枚だけで、他は普通の「ちょっとした影」程度の状況だった。

 同じ場所、構図で複数枚撮影したが、この内門の同じ位置に、「髪の毛クシャクシャ」が出たのは、最初の一枚だけだ。

 何となく「女の頭みたいだ」と思うだろうが、それは正しい。

 私の服の一部を隠しているから、「私の前にいた」ということで、門の陰から頭を出したわけではない。

 この日の最初の「地蔵」周辺と関りがあるかどうかは、まだはっきりしない。

 

 ちなみに、こういう出方をする時には、「少し姿を晒してみて、それを認識出来るどうかを確かめる」ためのことがあり、そういうケースには、その場のどこかから「こちらを見る視線(眼)」が覗いている。

 目視ではっきりしない時には、少し離れた箇所を調べ、「そこには存在しない筈の目のようなもの」があれば、疑いなく幽霊が関わっている。

 それが悪縁であれば、尚更、「己の姿を隠そうとする」ので、「見えるからいる」「見えぬからいない」という発想をすると、判断を誤る。

 合理的な判断など、「将棋盤の上で行う将棋」と同様に「ゲーム」に過ぎない。盤の外では通用しないのだ。ルールが通用するのは、自分と相手が決まりに従って行動する時だけの話だ。

 将棋で命を獲られることはないが、悪縁に負けると心が支配される。

 過度に恐怖心を持つ必要はないが、甘く見てはならない。いざしくじれば、やり直しがきかない。

 

 今年から来年にかけて、「大異変が起きる」と言われるが、とりあえずあの世ではもう始まっている。

 「大災害が起きる」予言については、必ずしもこの世の出来事ではない可能性があるが、この世の出来事と連動している場合があるので警戒が必要だ。

 何年かぶりに、がたがたとあの世が動いており、性質の悪い者が這い出て来た。