


◎夢の話 第1K20夜 穴の由来
十二日の夜は今で横になっていたのだが、体は休んでいても頭は起きており、何者かに色々と教えて貰った。
我に返ると(起きてはいたが)、私はN湖の湖岸に立っていた。
先日の訪問時を思い出していたのだ。
対岸を眺めていると、色々な情景が見えて来た。
どうやら、「穴(あの世と繋がるポイント)」は湖岸ではなく、山の中らしい。
そこに祠のようなものがあり、それが「穴」の役割を果たしている。「穴」は世間的に言えば、パワースポットと同じ意味だ。
中世以前からある祠だが、今では社は無くなり、積み石だけのようだ。
ここに女の神さまがいる。
「神さま」というのは神社のそれではなく、力を持ち求心力を持つようになった幽霊のことだ。
私も「昔(中世以後)、女で数百人の修験者を率いていた時」の記憶を持っているが、その私よりもずっと強い存在だ。
ちなみに、幾度も記して来たとおり、人の魂は「一人」が次の「一人」に生まれ変わるのではなく、一旦バラバラになった感情や記憶の細切れを再編成して、次の人格が生まれる。
私には中世の宗教集団の施主だった記憶もあれば、昭和二十三年にトラックに轢かれた五歳の男児の記憶も残っている。今では少なくなったが、死の間際の夢を何百回も観た。あまりにリアルなので、思わず目覚め、自分が無事かどうかを確かめずにはいられぬほどだ。
「女」には既にかたち(人の姿)がない。強力な者ほどかたちが無くなるが、影響力の方は桁違いに強くなる。
先日、神社で撮影した折に私の上に「女」が乗っていたが、これは巫女のような存在で「女」の供(侍女)に相当する者のようだ。これは今も中にいて、私の眼で見て、耳で聞いている。
「女」は私が湖岸に通い、お焼香をしているのを見ていたようだ。
いつも「この湖岸に仏さまを建立し、この地を訪れた人々が手を合わせるようにするとよい」と思っていたが、なるほどそれなりの理由があったようだ。
これには少なくない費用が掛かるから、私一人では出来ない。別途、何か考える必要がありそうだ。
「穴」は一時期、宿谷の滝にも存在したが、そちらは数年で消失した。その近くに寄ると、「もや」や「煙玉」「人影」が出て、「声」も聞こえる。幽霊が出入りするせいだ。
人によっては、うっかり立ち入ると、出られなくなる者もいる。私はたぶんそういう風に「穴」の影響を受ける。いわゆる「神隠し」に近い状況となるわけだが、あの世と関りを持たぬ者であれば、何の影響も生じない。もちろん、不敬を働いたり汚したりすると、酷い天罰が下る。これはいざ始まったら、その後は何をやっても抜けられなくなる。死んでも解放されぬから、ゆめゆめ軽んじてはならない。
眼に見えるものが総てではなく、見えぬものもひとの人生に影響を与えている。
前回、胸に出た煙玉が、従来通り「病気の前触れ」なのか、「巫女の所在」なのかは、そのうち判明する。もし前者なら、今月中にも私は死ぬと思う。今は血圧が二百だし、酷い不整脈があり、毎日心臓が跳ねる。
後者であれば、稲荷で拾った悪縁の影響は小さくなると思う。
楽観は禁物だが、たぶん、大丈夫。
いずれ私は必ず死ぬが、それは今月のことではない。
ここで覚醒。
景色を見て、考えて、話を聞いたので、普通の夢の流れとは違っている。
幾年にも渡り「(私が)お焼香をしている姿をずっと見ていた」と伝えられたのは、かなり心強い。
いつも記すが、この世にもあの世にもタダのものは無く、必ずツケを払う。あるいは、施したことがあれば、必ず報恩がもたらされる。
どうやら、ツケは払って貰えそうだ。
となると、あとは人事に専念して良い。現状ではコロナ貧乏により、このままでは程なく破産してしまう。今度は人事面で手を打って行く必要があるし、こちらに専念する必要がある。さあ、大変。
画像は前回の山の景色。よく見ると、「煙(もや)」、「視線」「人影」が見え隠れしている。
木々の合間を多くの魂が歩いているらしい。
私は稲荷の境内と同様に、この山にも入って行けない。
もちろん、以上のことは私一人に関わることで、他の者にとっては「ただの妄想」「気のせい」だ。そして、それが最もよい。
私は散々、あの世の者に関わっているので、既に手一杯だ。
この世の者のことなどどうでもよいし、関わりたくない。
どうせ死に間際になれば、誰もに「総てを悟る時」が来る。
現実にある「あの世」は、宗教や霊能者たちが語るものとは全然違う。