日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎障子の陰にいる者(603)

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令和三年十月二日撮影

障子の陰にいる者(603

 土曜は通院日。治療が長くかかり、終わるのが三時近くに達した。

 外に出ると、この日は快晴で、時間帯も良い頃間だ。

 そこで、車を玄関の前に入れ、外から撮影することにした。

 

 ここには「気配」があるから、何かが集まっているのは疑いない。

 間合い一㍍を隔てた障子の「すぐ陰に人が立っていた」ら、姿が見えずとも「誰かがいる」と察する人の方が多い。小さい身動ぎの音や畳にかかる重み、微かな息遣い、わずかな熱感などを通し、「誰かがそこにいる」と察知する。

 これが「気配」だ。

 この「気配」をいち早く察することが出来るかどうかは、「注意深さ」や「経験」に掛かっている。もちろん、それらを踏まえた「想像」が大部分を占める。

 畳の擦れる「スリ」という小さな音を「足の擦れる音」と見なすのは、その音を幾度か聞いたことがあるためだ。

 「あの世(幽界)」についても、「障子の陰にいる人」と同じで、「注意深く」「過去の経験と照らし合わせて」想像することで、「気配」を察することが出来る。

 もちろん、それはあくまで想像なので、時々、間違いも生じる。断片的な情報を基にするから当たり前だ。

 だが、自分自身を顧る手段として「気配」を推察するのであれば、特に問題は生じない。誤りがあればその誤りを正せばそれで済む。

 

 「ここは閉まっているから、横の出入り口から入ればいいんだよ。あるいは私について来ればよい」

 これを声に出して伝えた後、数枚ほど撮影することにした。デジカメだが、スマホよりはまだまし。

 道路からなので、やや遠めだが、病院の玄関を撮影した。

 その場ですぐに開いてみたが、拡大すると、私のやや後方に人影が見える。

 誰もいなかった筈だと思い、周囲を見渡したが、やはり通行人はいなかった。

 この画像でも幾らかは分かるが、ちょっと不鮮明だった。なお、当初は白いブラウスの女性と、後ろに子どもがいるように見えたので、「これはこないだの母子」と思い掛けたのだが、よく見ると後ろの小柄な人影は老女のようだ。

 こういうのは眼で見ているのだが、やはり「気配」の一種だと思う。その場に立たねば分かり難い。

 画像には可視域の断片的な情報しかなく、周囲の状況も分からない。

 突然、画像だけ見ても、何のことやら伝わらぬとは思う。

 そこは冒頭で記した通り、この「気配」を伝達しようとしているわけではないということ。

 自身に関わらぬ限りは「存在しない」のと同じことだ。「自分には関わりない話だ」と思えばそれでよい。

 もちろん、私は当事者だからそれでは済まない。

 

 やはりこの日も具合が悪くなった。

 腹痛が出たので、トイレに向かったが、酷い下痢が始まった。

 体調などは、基本は体の問題で、あの世的な「障り」がもたらすケースは僅かだ。「殆どない」と言ってもよい。

 だが、元々、私には持病があるから、「念のため」の用意が大切だ。その場で対抗できるほど、基礎体力が残っていない。この日も血圧が二百超から九十までジェットコ-スター状態だった。

 

 「こういう時にはお寺の方がいいな」

 お寺でゆっくりお焼香をすれば、自分自身も慰む。

 だが、既に三時を回っており、どのお寺に着くにも四時を過ぎてしまう。

 大きなお寺は四時台で閉まるところが多いから刻限を過ぎるし、小さなお寺にはゆっくり座れるベンチが無い。

 「ではとりあえずいつもの神社に行こう」

 そこで車を走らせ、神社に向かった。着いた時には四時半を過ぎていた。

 境内には数人の参拝客がいたので、迷惑を掛けぬよう後方から撮影した。

 離れた位置からだと景色を撮影しているように見えるので、後ろから撮影されてもあまり気にならならぬものだ。

 仮に、あの人影たちが病院ではなく私の方について来たとすれば、ここでは何も異変が起きぬことが望ましい。

 「このまま真っ直ぐ進んで、神殿の六十㍍くらい先まで行けば、さあっと楽になるからね」

 やはりこれを声に出して伝える。

 流れに沿って前進すれば、自然に天に上れる。これは人によっては、「川を渡る」「トンネルを抜ける」など、様々だ。その人の心象で形成されるものだ。

 彼らは障子の陰にいるのだから、心に念じても何も伝わらない。声を掛けねば、相手には何ひとつ伝わらないのだ。

 

 数枚ほど撮影したが、画像上はあまり判然としない。

 はっきりとしているのは、私の頭の傍にある煙玉くらいだ。日光や湿気の影響ではなく、純然たる「説明のつかぬ煙玉」だ。

 煙玉はいつも出るが、通常は患部のある個所だ。

 「道理で最近は『もうそろそろお袋が迎えに来てくれてもいい』と思っていた」

 絶望感を吹き込まれているわけだ。

 

 そして、その主は私の背後にいる。

 殆どの人は目視出来ぬし、影の見える人も僅か。もちろん、私には顔の表情も見える。

 私は当事者で、「五十㌢後ろに女がいる」から気配で分かる。

 画像のガラス戸の左右の映像が合わぬことに気付き、接合してみたが、実際に合わぬ箇所がある。

 それまで最も不信を覚えていたのは右肘だったが、その箇所に「薄く煙状のもの」が乗っていた。

 私だけが断言できることのひとつは、「これは(女の)手だ」ということだ。

 何故そう言い切れるのか。

 答えは簡単で、その時、「実際に肘を掴まれている感触があった」ということだ。

 これは当事者だから分かることだ。

 

 今年は例年より気を付ける必要があるようだ。働きかけが物理的な現象に及んでおり、盛んにメッセージが送られている。「悪意」も向けられ、体調が不自然に悪くなることが多い。

 神社に行き、お腹の調子が目に見えて良くなる・・・ことはなく、その後、帰宅するまで苦痛が続いた。

 ただ、あの病院の玄関での気配の原因が分かったので、気が楽になった。

 「女」はひと月半前に死んだバーサンではない「別の者」だが、階段の照明を不自然に消したり、棚から物を落としたりしていたのは、こっちの方らしい。

 気が滅入り、「もう死んでもいい」と思うこともあるので、「女」が良い性質の者でないのは確かだ。そして、こういうのは極力、姿を隠す傾向がある。

 「見えぬからいない」のではなく、逆に「見えぬから危険」だと肝に銘じる必要がある。いずれにせよ、何らかの気配があるし、気配を総て消すことは出来ない。

 

追記)昔、時々、バイクで大学に行っていたが、学部の門を出て、右に進もうとした時に、右手首をがっちり掴まれたことがある。私はそのままハンドルを動かせずに、真っ直ぐ正面のガードレールに突っ込んだ。

 バイクのハンドルが曲がり、エンジンカバーが割れてダイナモがむき出しになったが、エンジンが掛かったので、曲がったハンドルを操作して乗って帰った。縦のハンドルを操作したから、よく事故を起こさなかったと思う。

 家に帰るまで緊張していたので気付かなかったが、帰ってから右手を見ると、誰かが掴んだ手の後が青黒く残っていた。

 

 こういう感じのことは、起きぬ者にはまったく起きぬが、起きる者には、時々起きる。よって起きる者は、「起きるかもしれない」ことを常に念頭に置いて行動する必要がある。

 つい最近の「自分が通る時だけ灯りが消える」のは、経験してみぬと分からない。そして「こういうことは止めてくれ」と伝えた後は、ごく普通にいつも点いている。

 ひとを選んで起きるのでは、到底、物理的な問題では無いと思う。他の家族が普通に通るのに、自分の時だけ灯りが消える。こういう経験をした人はあまりいないから、何が起きているかを説明するのは本当に困る。

 自分が経験したことが無いと、殆どのひとは「有り得ない」「きっと作り話」という反応をする。これは「一度も経験していない」のだから、当たり前の反応だ。

 ジャックフルーツの味をいくら言葉で説明しても、大半の日本人は食べたことも、生っているところを見たことも無いから想像がつかない。それと同じ。

 

 一方、あの世的異変を認識し始めると、徐々に世界観や人生観が変わって行く。幻(まぼろし)は「あの世」ではなく、人が当たり前だと思って暮らしている社会生活や常識のほうだ。

 不幸なことに、殆どの人は死に間際までそのことに気付かない。気付いた時には、もはや死ぬべき時が来ており、他の誰にも伝えられない。