日刊早坂ノボル新聞

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◎「あの世ウォッチング」の原点に還る

◎「あの世ウォッチング」の原点に還る

 本格的にあの世観察を始めたのは、割と最近のことだ。まだ十年くらい。

 平成二十年代の後半に変事が相次いだので、単なる恐怖体験に留めることなく掘り下げてみる気になった。

 その最初の方の契機のひとつがO町での体験だった。

 O町のある温泉旅館で日帰り入浴したのだが、旅館の入り口を入ったところから、何か話し声のようなものが聞こえた。

 「ぶつぶつ」よりも微かで、「かやかや」といった感じで、壁の向こう側で誰かが話をしているような声だった。

 これが浴場でも聞こえる。

 家人と一緒だったが、家人が風呂から上がったところで、「何か声がしないか?」と訊ねると、「聞こえる」との答えだった。

 昼の二時頃だから、宿泊客はいない。この旅館が日帰り入浴を受け入れていることは知られていないから、他の客は一人もいなかった。

 

 旅館の前で家人を撮影すると、ガラス窓に私の姿が映ったのだが、何だか他にもいるような気がする。また、「誰かに見られている」ような感じがあった。

 玄関の前で撮影すると、今度ははっきり人影のようなものが映った。

 撮影当時は分かりよかったが、こういう画像は時間の経過と共に変化してしまうから、今ではほとんど判別し難くなった。

 

 一昨年の「稲荷事件」を契機に、感度がかなり高まったのだが、改めてこの時の画像を見ると、やはり当時から複数の者にたかられていたようだ。

 視覚的には朧気で、「気のせい」と言ってもよいほどなのだが、こういう時には必ず「声」が聞こえる。その後、「あの世の者は可視聴覚域の境界に跨って存在している」ことが分かり、カメラなど捕捉範囲の広い機器を使用し、ガラス窓などに光を反射させ、一定の波長の光を選り分けて撮影した時に映りやすいことが分かった。

 また、あの世の者は概ね「心だけの存在」と言ってもよく、心は波動のようなものなので、音叉のように心情が共鳴する。霊感の本質は共鳴であって、単純に波長の問題だということも分かった。

 いつも「霊能力などと言うものはない」と言うのは、それが近視や遠視といった単なる身体的状態を反映したものだということだ。コントロールできるわけではないので能力ではない。TPOを整えれば誰でも見えるし聞こえる。

 

 当たり前のことだが、セルフチェックは今も続けており、時々、自分の姿をガラスに映しこれを撮影する。最近では、専ら最寄りの神社に行くが、やはり神社やお寺には霊が集まりやすい。

 いつも同じ場所に「気配」を感じるが、詳細に見ると、同じ母子が顔を覗かせている。見慣れていないとほとんど分からないわけだが、慣れるとピンポイントで異常が分かる。

 HDの破損でこれまで撮影した画像の大半が使えなくなったが、過去にも異変が様々記録に残っていた。

 「煙玉」は基本的に自然現象だが、あの世現象の付帯物として現れることがある。

 最後のはかなり前の画像だが、当時は蒸気玉(水蒸気にフラッシュ光が反射したもの)だと思っていた。だが、この位置では、人影がまともに写ったりするので、純粋な自然現象という訳でもないようだ。

 

追記)「何だ。不鮮明で分かりやしない」と思うだろうが、その通りで、人間の五感でははっきりと捕捉し難いのが特徴だ。だが、繰り返し同じものが現れると、さすがにそれと分かる。

 O町で「白い着物の女」を撮影したが、このひと月後には、まったく別の神社の前で、同じ女が私の背後に立った。これが生きた人間でないのは、体のサイズで分かる(頭のサイズから見て二㍍以上の背丈がありそう)。

 なお、旅館の玄関で最初に撮影した「奥に立っている女」、「椅子に座る私の背後に立つ女」、神社で「私に背後から覆い被さる女」は同一の者だ。

 全然別の場所で、同じ者が写るということの意味は、「私について来ている」ということになる。

 だが、私に災いをもたらす存在ではなく、私の「あの世友だち」のようなものだと思う。パートナーであり、私を陰から支援している。

 あるいは、仮にこれが悪縁(霊)であれば、私が悪縁の仲間だ。