日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「C17 鍵屋茂兵衛 銭三貫文預」

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鍵屋茂兵衛 銭三貫文預

古貨幣迷宮事件簿 「C17 鍵屋茂兵衛 銭三貫文預」

 盛岡藩御用金(お抱え商人のこと)鍵屋・村井茂兵衛の発行した預切手になる。

 記年に「巳」とあるので、安政四年か明治二年となるが、概ね後者の方だろう。

 

 この頃は四代目茂平衛の代になっている。

 この頃、盛岡藩に要請され、幕府への賠償金七万両を肩代わりした。

 その見返りが尾去沢銅山の経営権で、事実上、鉱山は鍵屋のものになった。

 ところが、当時の慣行上、お上が金を借りるというのは不敬に当たるので、証文には「藩のお貸上げ」のような表現が使用された。まるで藩が貸したようにも受け取れる。

 このことに目を付けたのが、当時の大蔵大輔、井上馨だ。井上は諸藩の外債返済の処理を行っていたが、証書に「藩が貸してある」として鍵屋にその返済を求めた。

 こういうのは当時の藩の役人から聴取すれば話がつくはずだが、井上の狙いは銅山を我が物にすることなので、証拠を盾に取って応じない。

 鍵屋は既に七万両を建て替えたばかりだったので返済が出来ず、大蔵省はその不履行をもって尾去沢鉱山を差し押さえ、鍵屋は破産に至った。

 井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。

 茂兵衛は諦めずに秋田裁判所、司法省裁判所に訴え続け、これが井上馨に反発する当時の法務大臣江藤新平の意を汲む者等に利用され、世間に疑獄であると印象付けた。

 だが、そのことが井上らの腹を決めさせたのか、明治六年に茂兵衛は変死している。

 もちろん、これが「誰か」の差し金であることは容易に想像出来る。

 政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに1873年明治6年)秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立。岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展していった

 明治末には尾去沢鉱山は三菱鉱山の所有となった。

 

 鍵屋は豪商で「士分」であったから、七万両を肩代わりするのは嫌も応も無かった。

 茂兵衛はさぞ「じくじたる思い」を抱えたまま亡くなって行ったことだろう。

 札一枚の中にひとの心がある。

 さすが豪商の振り出した札で、全体から風格が滲み出ている。