◎古貨幣迷宮事件簿 「瀬川安五郎とあら川銀判」
十年前の雑銭の会定例会用の資料を再録し、幾らか加筆した。
「大直利」について (雑銭の会 2012/08/25付資料)
以下は山田勲著「鉱山開発の先駆者 瀬川安五郎」(国書刊行会、1988年)の当該箇所を要約したもの。
1.「大直利」(おおなおり)
大直利とは旧南部領内で使われた言葉である。
鉱山用語ではないと思われるが、鉱山で良鉱脈が発見され出鉱増大が見込まれることを「おおなおり」といっている。
鉱山社会では、良鉱脈が発見され、しかもこれが相当の永続性があると分れば、鉱山社会すべてで景気か良くなるので、すなわち「世なおり」で、これを「大直列」といい、鉱山あげて祝い事を行うのである。
荒川鉱山では、瀬川安五郎か払い下げをうけて1カ月後の明治9(1876)年11月1日に、嗽沢(うがいざわ)の1番坑に大鉱脈を発見し、翌明治10年1月より12月迄の出鉱額15万7,609斤を示している。明治11年11月より12月までの出鉱額は35万345斤と前年の倍以上の数字を示している。
明治12年8月には、さらに良鉱脈を発見し、この坑を「日ノ出坑」と名づけ、この年に瀬川は大直利の祝賀行事を行っている。また荒川鉱山の中央を流れる荒川にかかる橋を「大直利橋」と名づけている。
さら30匁の判銀を作り、これに直利判(なおり)と瀬川安五郎が奉書の包紙に自著し、関係者、親戚等に配っている。盛岡では瀬川正三郎先生の長男明氏が所蔵しておられる。
また鉱山の役員、従業員には金一封と酒肴を贈ったことであろう。
2.荒川鉱山の経営
瀬川が荒川鉱山の経営に乗り出す直前における荒川鉱山の戸数は19戸、人員は95人であったが、瀬川による新経営体制では戸数51戸、人員243人であった。
幸いにして大直利にあい、さらに明治12(1879)年8月には前途の光明を示唆するような大鉱脈目ノ出坑の大直利にあい、11年頃より鉱山従業員の増加、鉱山関係の施設の拡充、さらに鉱山従業員への日常生活に対する施設の・増大を図った。
明治12年12月23日の、藤田一郎の日記(「奥羽紀行」)による荒川鉱山の概況は次の通りである。
役員については、荒川鉱山の経営開始の後、一級手代として佐藤伝治を採用している。この人は秋田県仙北郡の平民で、当時代言人(弁護士)で秋田県改進党に属し、秋田における雄弁家としても著名であった。瀬川が米の買い占め等で困却したとき、平福徳庵の斡旋で佐藤を起用しみごと解決したが、このときの機縁で採用したものである。
そのほか鉱山の活況を呈したことにより、運搬等のため雑夫人足がふえている。
座食はいまや使われない言葉であるか、幼児、老年者、不就業の人など、家庭にいる人のことをいう。また神社と学校が出来ている。
ともかく当初243人が、1,017人に増加している。明治9年10月以来12年12月までの間、3年間に774四人の増加である。(引用要約ここまで)
3.あら川銀判
大正以降、中央古銭界では「荒川銀判の後鋳性」に冠する議論が起こるのだが、これは時代的に情報が正確に伝えられていなかったことによる。また、銭譜など古銭そのものに関する情報以外の情報について古銭家はあまり調べない傾向があるので、過去の適切でない議論がそのまま踏襲されていたりする。
現品は箱入りで、きちんと説明書きが添付されており、製造意図などはその書付に記されていたわけだが、東京で紹介された時には一切が無くなっている。
もちろん、これが意図的な行為であることは、「南部銀判」等の別名が記されていることで分かる。
ちなみに、銀判を作成しているので、荒川鉱山が銀山だったと考えている人が多いのだが、荒川鉱山は銅山である。
4.瀬川安五郎の人となり
以下は『仙岳随談』からの引用要約になる。
瀬川安五郎は、元は両替商の息子だったが、維新の時に家は破産する。
ある時、安五郎は盛岡の市外で使えそうな草鞋が沢山捨ててあるのに気付いた。
旅人が街道を歩いて来て、街に入ろうとする時に真新しい足袋と取り換え、それまで履いて来た足袋をすてたためだ。
安五郎はその足袋を拾って売り、その金で農家から卵を買って市内の料理屋に売り、利益を得た。そうやって小金を得て、さらに当時の成長産業だった生糸の商いで急成長した。全くの無一文から鉱山経営を引き受けるまでの間は10年もかかっていない。
その間も浮き沈みがあり、波乱万丈の人生を送ったのだが、渋沢栄一や原敬と交流があったことが多数記録に残っている。
この人の凄いところは晩年で、投資でしくじり破産し資産の総てを借金のかたに取られたとき、茶碗と箸のひと揃いだけを持ち「赤銅御殿」を出て行く。
なお「赤銅御殿」とは、荒川銅山経営で得た富で建てた豪邸のことを指す。(引用ここまで)
安五郎は一代で財を成したが、その一切を失っても、まったく動じる様子がなくそれまでと変わりなかったということだ。
浮き沈みは人生にはつきものだが、凡人は一喜一憂してしまうのに対し、不動心(もしくは達観)の域に到達していたということだろう。
その人の真価が問われるのは、万事がうまくいっている時ではなく、逆境にあるときだと言うが、瀬川安五郎の人生の軌跡を辿るとよく分かる。