日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊気を遮る

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令和四年三月四日撮影

霊気を遮る

 改めて三月四日の画像を点検してみた。

 すると、やはり日光と景色(物)だけでなく、それとは別の煙が浮いていた。

 ほぼ透明の煙玉が浮き、煙の筋が流れているのだ。

 昨秋は奥にある稲荷の存在に気付かずに前を通り過ぎ、後で気付き菩提樹の樹の右後ろの方から社の前に行ったが、煙の筋を遮ったようだ。

 このため、「頭に蜘蛛の巣がかかったような触感」を覚えたのだった。

 幹の前を流れる「煙の筋」は見える人が幾らかいると思う。

 

 画像を出して置いて言うのもなんだが、この煙玉や霊気の筋が見える人は僅かで、殆どの人が何も見えぬと思うが、あまり覗き込まぬ方がよい。

 あと「(変人の言うことは)そんなもの」と見なし、疑わずにさりげなく離れるのがよい。

 (否定的な思考に先方が反応する場合がある。)

 一般人が考えているほど「あの世」は甘くないわけだが、うまく距離を置き、敬意を払うと、状況(多くは心境)を改善する道が開ける。

 人と仲良くする必要はないが、あの世とは折り合うに越したことはない。

 

 「あの世ときちんと向き合う」ことの効用は、「前向きな気持ちになれる」ことが一番だが、私のように「死期を遅らせることが出来る」場合もある。

 私には「間近に死期の迫った者」に現れる兆候がほぼ総て揃っている。

 ほんのちょっとした気配を見逃さぬことが大切だ。

 

追記)この角度から見ると「ここはちょっと怖い」と分かるのだが、昨秋には草の背丈が高く、稲荷の社がまったく見えなかった。私は菩提樹の右手の奥に進んだところで、神社があると気付き、つい「拝んで行こう」と横入りした。
 頭から顔にかけて、蜘蛛の糸がかかった時のような感触があったが、もの凄く不快だった。
 稲荷には「この後も領域を侵すことは無い」と約束したので、今後はいっそう「神域の中には入れぬ」身となる。
 正直、危なかった。

 

追記2)以下は例え話。

 家人の勤務先の小学校では、新年度の初めに怪我をする教師が五六人出るそうだ。

 骨折とか、事故などで割と何日間も仕事を休む。

 これが「毎年必ず起きる」ので、「何か障りがあるかも」という噂になる。

 「校庭が元々は沼地で、それを埋め立てたので障りがある」みたいな話だ。

 

 「あの世」の所在を否定する人の方が多いわけだが、こういうのは筋が通らぬと思う。

 例えば、「幽霊などいない」と思うのなら、「幽霊を怖れる」必要はない。存在しないからだ。

 墓地も廃病院も、事故物件も何ひとつ問題はない。何故なら、そういう「何か」は存在しない。

 簡単な話だ。

 逆に「少なからず悪縁があり、そのため障りがある」と見なすなら、さっさと地鎮祭なりお祓いをすればよい。それで改善されぬなら、また別の手立てを考える。

 だが、殆どの場合、「噂をする」だけで何もしない。「障りがあるかも」「祟りがあるかも」と噂し、半ば怖れるだけで、一切何も手を打たない。

 「死後の存在がある」と見なす者よりも、不合理で非科学的な発想をしていると思う。

 

 「存在しない」と見なすなら、一切が偶然なので気にする必要はない。これはある意味正解で、「たまたま」だと思えば気が楽だし、「新年度当初は新任の方を中心に事故が起きがちですので注意してください」というお触れを徹底することになる。たぶん、これで事故は減る。

 あるいは、元の沼地跡にお神酒を供え、「今年一年も使わせてください。よろしくお願いします」と祈願すれば、割合受け入れて貰えるし、そもそも礼拝により気が楽になる。

 嫌な気分が消え、たぶん、事故も減る。

 結果的に、あの世を信じても信じなくとも、きちんとその考えに則った振る舞いをすれば「事故は減る」のだ。どうせ知覚出来ぬ者が大半だし、信じてもいないのなら、あれこれ考えずに「一定の基準に従って行動すれば、いずれにせよ改善される」ということだ。

 しかし、殆どの場合は問題がいよいよこじれるまで何もしない。

 口では「そんなのは有り得ない」と言うのに、何故に怖れるのか。まったくもって理解不能だ。 

 

 ちなみに、家人に「教師は全部で何人?」と訊くと、「四十人くらい」との答え。

 ダンナの答えは「それならたまたま(偶然)の内だ」というものだ。

 毎年、四十人中三十人が怪我をするなら、そこで「何か別の要因があるかも」と思う。

 

追記2)この煙の筋みたいなものが割と重要で、目には見え難くとも「何だか変な気がする」原因だ。これが乱れていたりすると、「何か」がそこにいるような気分をもたらす。見えぬのだが、しかし、見ているわけだ。

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