日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「いつ明治三年を作ったのか」

◎古貨幣迷宮事件簿 「いつ明治三年を作ったのか」
 明治最初の通貨の代表が「一円銀貨」(以下「円銀」)だが、当初は貿易決済用として作られたので、専ら海外との取引で使われた。
 このため、規格はいわゆる「トレードダラー」に合わせており、かつ銀一圓=一両相当になるように設定されている。

 最初の円銀は旭日と竜の意匠になるが、これには明治三年と四年の銘がある。
 これはあくまで記年表記であって、もちろん、「その年に作った」という意味ではない。前年の明治二年には、幕軍と交戦しており(戊辰戦争)、その直後に貨幣製造を開始したと見るには、無理がある。実際、「新貨条例」の発布が明治四年だから、貨幣単位を「円」と定める前に貨幣を製造していたことになり、ナンセンスだ。
 製造の準備をしていただろうが、機器や材料などのセッティングには相応の時間を必要とする。
 貨幣の歴史をひもとくと、造幣局が稼働し始めるのは明治四年とされているが、これは「生産」ではなく「製造着手」という意味だろう。企画や意匠を決め、プレス機械を設置して、材料を揃えるには、およそ半年の期間でも到底足りぬ。
 円銀であれば、明治五年から七年。五十銭銀貨は五年が「空白」の期間だから、明治四年に製造に着手し、五年に実際のプレスを始めたのではあるまいか。意匠はデザインを考えた時のものだから、記年銘は明治三年四年だ。

 とりわけ、初期においては極印の摩耗を考慮する必要があったようで、極印を大量に作る必要があった。ほんの数十枚の旭日竜五十銭の文字型を観察すると、複数通りの「打極むらによらぬ変化」が観察出来る。
 これは、極印の打極可能枚数を見越して、かなり多くの極印を製造していた、ということだ。それなら、まして半年やそこらでの準備は難しい。最初の頃には、おそらく打極数数千回(枚)ごとに極印を取り換える必要が生じたのではないだろうか。
 ちなみに、貨幣の彫刻自体は1㍍サイズの原型を彫ることから始められる。これが完成すると、「縮小彫り」の装置を使い、順次極印を縮小させて行くわけだが、この中間段階の調整で、文字型にも変化が生じるのだろう。
 以上は多く推定を含むので、念の為。ただ、実際に起きたことは、紙に書かれていることとは異なる場合が多いので、文字テキスト情報を鵜呑みにしてはいけない。

 さて、以上は前振りで、本題はここから。
 明治七年には貿易決済用の通貨として「貿易銀」という貨幣が作られるのだが、それ以前は専ら円銀が決済用だった。
 ところが、東北地方に行くと、貿易決済用だった筈の旭日竜一圓銀貨が、時々まとまって蔵から出て来る。
 とりわけ一関から花巻の鉄道に沿って、この旭日竜明治三年銘の発見例が多い。
 幾度か現物を見せて貰ったことがあるが、いずれも一枚ずつ和紙で包まれていた。

 この状況については、かつて南部コインズの奥井勇氏が実際に蔵主から聴取したところ、「明治十年代に東北線の敷設が進められていた時に、土地収用の代金として明治三年の銀貨が充てられた」ということだった。
 その事実を記す書き物なども残っていたようだが、今では消息不明だ。
 ただ、実際の分布状況がそれを裏付け、北上や花巻の沿線では現実に未使用状態の明治三年銘が散見される。
 日本鉄道が東北線の仙台盛岡間の工事に着手したのが、明治二十年の十二月だから、「明治十年代に土地の収容を始めた」とういうのも状況に合致している。

 だが、時代は既に明治十年代だ。何故「明治三年」を代金として払ったのか。
 これには貨幣の信用の問題が関わっている。「ご一新」(明治時代の「明治維新」の呼び方)の後、まだ十年しか経っておらず、国立銀行券に対する信用が今一つだった。これは藩政期に盛岡藩が発行した天保札(七福神札)が一年の内に紙くずとなった経験が教訓として残っていた、ということもあるだろう。
 土地の代金だから、金額は相応の金額になる。
 これをスムーズに運ぶために、「一両」の面影を残す円銀で支払った。旭日竜一圓銀貨は、明治七年以降の新一円銀貨よりも立派なつくりをしていたので、専らこれを使用したということだ。
 (量目は同じだが、サイズが大きい)。

 さて、これからが問題だ。
 東北線の敷設に際し、土地収用を円滑に行うために、「円銀の明治三年で代金を払った」のは良いとして、それに用いられる円銀は「万枚」「十万枚」の桁に及ぶ。
 十数年前の製造時には、その用途で使うことになるとは想定していなかった筈だ。
 なら、日本鉄道は「円銀明治三年をどこから調達したのか?」。
 答えはもちろん、政府だ。
 では、政府は十数年前に作り、製造を停止したその貨幣をどこに取り置いたのか?
 
 私見だが、私は「国庫に深く仕舞われていたお金を出した」のではなく「新たに打極した」と思う。桁は数万枚、ことによると数十万枚に及ぶ。
 その傍証となるのが、東北本線沿線で発見される「明治三年は総て完全未使用の状態で出て来る」ということだ。流通使用されたものは一枚も無い。

 ちなみに、和紙に大切に仕舞われたその円銀は、空気を遮断した金庫の中に入っていたが、いずれも表面が「白い粉を吹いたような」状態だった。銀の表面は容易に劣化・変色するから、どんなに密閉しても「鏡のような状態」ではいられない。
 今なら完全密閉し、腐食や変色を防ぐ手法があるわけだが、明治期には無い。
 二十年前に、金融機関の金庫に仕舞われていた銀貨を大量に買い取ったことがあるが、これも相応の変化が生じていた。
 このため私は「ダイヤのように輝く」明治の銀貨を信用しない。基本は米国製だと思うが、実際、ギザのつくりも違う。
 輪側が重要なのは、鋳造貨幣と全く同じだ。

 貨幣収集家は貨幣の作られた背景には殆ど興味がなく、この手の話題はまったく上がったことがない。
 だが、むしろ「どうやって作ったのか」「どう使ったのか」を推測する方がよほど楽しい謎解きゲームになっている。

 

注記)眼疾があり、一発書き殴りで推敲や校正をしない。表記に不首尾はあると思う。