◎古貨幣迷宮事件簿 「明治の西洋紙」
前の記事で「明治中期の西洋紙」について言及したと思うが、これが明治十年代に日本で最初に作られるようになった西洋式の紙だ。
歴史に関わる検証では、最初に「紙を確かめる」というステップが必要だ。戦国以前の書き物については、概ね後代の書写が多く、かつその中には偽物が沢山ある。
この場合、偽書を作る際には、その当時の紙と墨を併せる必要があるが、贋作者はそんなことは承知しているので、きっちり合わせてあることが多い。
しかし、無地の紙を基準に、きっちり当該の時期にそれがあったかどうかを検証する習慣を付けて置くと、「いつ」「どこで」を確かめる道が生じる。
時代が下っても、そういう姿勢が必ず必要になる。
時々記すが、幕末元号の「元治」は元々「がんち」と読んだ。ところが、今では辞書にも「げんじ」と書いてあるし、学者・研究者も「げんじ」と言う。ところが、明治生まれの人は必ず「がんち」と読んでいた。昭和四十年台では、NHKの連続ドラマでも「がんち」と正しく言っていた。
元号はひとの名前と同じで、決まった読み方があるからだ。
この事態について調べたところ、明治のかなり早い時期に関西の出版業者がルビを間違え、それが次第に一般化していった模様だ。
その資料を読んだ者はそれが正しいと思うから、次第に変わって行く。
だが、研究者的には「検証を怠っている」ということ。辞書に誤謬を載せたままにしている日本史学者の大半は「クズ」だと思う。「昭和」を「あきかず」と読んで平気なひとたちなのか。「昭和」には「しょうわ」以外の読み方はない。
「元治」も「がんち」以外の読み方はない。「という説もある」という別解釈も無い。
私が最も小馬鹿にする人種は、「ここでこういう文書が出ました」と手柄を取ったように公表する研究者の類だ。どの時代にも作り話を記す者は居る。
まずは紙と墨の話(確からしさ)の話から始めろ。
ま、私だって、昔の話をまるで見て来たように書いている。
かなり脱線したが、腐食がどのように進むかについては、実際に確かめてみなくては分からない。銀貨幣がどのように腐食するかについては、実験してみれば、想像するよりも幾らか確からしい知見が得られる。
さて、この紙で銀貨や銅貨を包み、どれくらいの時間が経つとどのような変化が生じるか。
さ、近代貨コレクタ-よ。その答えを言ってみろ。
金融機関の金庫の中には、封筒に入ったものもあった。布袋の銀貨と封筒のそれとは、腐食の進み方が異なる。
銀貨幣の中には、明らかに作りの違うものがある。天正とか永楽とかで「何だかおかしい」と思ったことのある人も多い筈だ。
私がわざわざ知人を介し、中国の古銭村に「たった一枚の銀銭」を注文したのはそういう理由だ。
繰り返しになるが、実際に作ってみれば、想像よりも確からしい知見が得られる。
ただし、それは検証のためだから、一枚もしくは数枚だけだ。百枚作れば、その意図は別にある(要するに「売るため」だ)。
ちなみに、画像の永楽銀銭は「鋳写しを繰り返して小さくなった」ものでは全然なく、粘土型で作り型自体が縮小したためだ。
永楽の鐚銭には、中間段階を埋めるステップが残っているから、「無頓着に鋳写した」という傍証が存在するが、八戸銭(目寛見寛など)は中間のステップがない。
そこで、「良質な砂が得られず、粘土型を使用したから銭径が著しく縮小した」という仮説を立てることが出来るわけだ。
ま、収集はあくまで道楽の1ジャンルだ。自分が分かればそれでよい。
古貨幣からファンタジー的な要素を取り払えば、「資金を投入できる者の勝ち」になってしまう。
ある程度の理由があれば、レプリカをそこそこ容認しても構わないと思う。
ただし、それがレプリカであることを概ね見取れるだけの知見は必要だ。
ちなみに、最後の元豊銀銭1枚の製作費は25万くらいで、本物と変わりない。
「中国でどう作るか」という製作見本なので、すごく勉強になる。
昔(中世以降)も今も、日本と大陸では鋳造法がまるで違う。
なお、永楽銀銭の方は、日本式鋳造法の実験をしたものだ(粘土型)。
注記)日々のエッセイで書き殴りだ。真面目に捉えないこと。
もしくは、なるべく読まぬこと。最近、読む人が増えて来たようなので、如何に「減らす」かを念頭に置いている。なるべく、もう来ないでください。