日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「金庫から出た銀貨の顛末」

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金庫から出た銀貨

◎古貨幣迷宮事件簿 「金庫から出た銀貨の顛末」

 これまで金融機関の金庫から出た「銅貨」の話を幾度か記したが、その時引き受けた品の中心は銀貨だった。あまり思い出したくない件なので、銀貨についてはほとんど記述したことは無い。

 関東・東北の複数の金融機関の金庫に眠っていた近代貨幣が幾度かの「不況の煽り」を食って世に出て来た品だから、売り手については口外出来ぬ。

 書けるのは買った銀貨がどうなったのかということだけだ。

 関東の件では、さすが営業慣れしている担当者だったのか、初めに少数枚だけコイン店に持って行った。この場合、「見て下さい」という言い方だと、「冷やかし」のケースが多いのか、業者によってはいきなり「売る気が無いなら帰れ」と怒鳴られるケースまである。(私の会社の事務員女性が現実に怒鳴られて帰って来たことがある。)

 たぶん、金融機関の担当者はサンプルとして十枚二十枚を持って行き、実際に売ってみて対応を見たと思う。

 もちろんだが、その時には「全部でどれくらいある」「あとどれくらいある」とは言わない。最初に「六十キロの銀貨」と言おうものならひと山計算になってしまう。

 小口の単価を聞き、それが増えた時にどうなるか。もちろん、それでも単価は下がるわけだが、いきなり言うよりはまし。

 市場にまとめて出せば即座に値が下がるから当たり前だ。

 また、まとまった量があれば売り切るまでに時間を要する。評価は「その時の市場取引価格」だけでなく、「売り切るまでの時間」×(1/N)が関わることになる。

 カタログの値段は買い取り価格の実勢とは違うのだが、そういう市場性が分からぬと、「業者に騙された」みたいな話になる。これは商品性、もしくは市場性に関わる話なので、そもそも話の筋が違う。三か月で売り切れるケ-スと、十年掛かるケースでは、流通商品としての価値がまるで異なる。

 コインの話から遠ざかるので、経済性の話はここまで。

 

 金庫の話に戻ると、銀貨の方は概ね袋入りだった。銅貨は紙で巻かれていたものばかりだったが、銀貨は布袋に入っていた。雑銭の会の例会で一部を見せたことがあるが、金融機関の貨幣袋にもあれこれ特徴がある。日銀の袋もあったが、あれは後で整理のために入れ直したものだろう。

 紙で包む場合は、割と密閉されているようだが、ギザの部分から硫化(トーン)が入る。布袋に入れ、金庫に仕舞ってあったケースでは、一部分だけ黒くなるのではなく、表面の所々に塩化が生じる。この場合は概ね谷だ。

 一枚一枚を和紙などで包んだ場合は、硫化・塩化の進行を遅らせることは出来るが、白い銀錆が出来る。これで表面が「粉を吹いたような」状態になる。

 これはそれぞれのケースを観察した上での見解だ。

 で、「百年経った銀貨幣には、必ずどれかが入っている」。これは傍に、硫黄・塩素を含むものがあったかどうかということにかかっているようだ。

 西洋紙が作られるようになったのは明治中期からだが、和紙と違い酸が使われる。

 紙の製法はそれ以後変わっているのだが、明治の西洋紙であれば、それに触れる環境なら銀貨の劣化も早い。量にもよるが、金庫の中に書類が入っていると、長い年月の間にはその影響が生じる。

 ちなみに、凸凹した谷には、時間が経つと塩化系の劣化が入りやすいから、古い銀貨を眺める時には、そこを最初に見る必要がある。ここは「それが無いからきれい」という意味ではない。百年経ったら「それが入っていて当たり前」だということだ。

 「九」とか「匁」という極印については、その文字の谷の方を見ると良い。

 トーンは数か月で入るが、百年経てば極印の谷には塩化、酸化が起きているのが普通だ。

 

 再び元に戻ると、十キロ単位の銀貨を単品で検品してはいられぬから、何らかの合理的な基準で評価する必要があった。そこで銀地金を基準にすることにした。

 諸費用を控除した価格を銀地金の実力と見なせば、価値がそれより減じることは無いからだ。もちろん、幾らかこちらの手数料も加算する。

 「これでどうか」と打診すると、担当は「すぐに全部買い取って欲しい」とのこと。

 前段階で聞いた評価よりだいぶ高かったということだ。

 しかし、後になって分かったことが、銀地金の市場価格は変動が激しい。その後、相場が下がり始め、グラムで四五十円は急落した。売るに売れない。

 そしてそれ以上に問題となったのは、雑銀貨のコインとしての価格は「常に銀価格よりもだいぶ低い」ということだ。

 この状況は今も変わらない。つい先日、試しにネットオークションに雑銀貨を数十枚セットで出してみた。間には意図的に小特年を混ぜ込んである。目ざといものはすぐに気づくはずだ。

 だが、結局、銀地金で売却する価格よりかなり低い情勢のようだ。さらに出品手数料を控除されると考えると、最初から銀地金で扱った方がまし。

 四五年前に、NコインズのOさんが亡くなった時に、遺品処分のお手伝いをしたが、その時に銀貨類は重量換算で売却した。地金業者買い取り価格から溶かし賃を控除した金額だったが、この時に私の抱えた品も併せて売却した。

 その時の売価がグラム80円くらいだったと思うが、ある収集の先輩はひとりで50キロ以上の銀貨を買った。今はその時の相場よりもグラム五十円以上上がっている。

 その先輩は投資で暮らす生業をしているが、「さすがだ」と思った。

 個々の年号や状態は見ないから、きちんと見れば特年や極美品が拾える。それは個別に処分し、残りは相場の上昇を待って、その時に銀地金として売る。その後の一時期には相場が下がっていたが、今はコロナも関連し金銀とも沸騰状態だ。

 私は自分の品を売りに出したが、遺品に売れ残りを出さぬよう、Oさんの残り物を引き取っていた。結局は自分の銀貨を売りに出し、他の人の銀貨を買う羽目になった。

 いわゆる「行って来い」という状況だ。

 

 先日、再度現況を確かめたので、少し残っていた銀貨は、基本、「銀地金」として専門業者に行く。 

 だが、幾らかプレミアムの付きそうな品はどうだろう。銀地金より評価が上がるのであれば、個別に売る手もある。

 劣化のさほど見えず鏡のような色合いの品については、幾らか残してあるが、点検してみる必要がありそうだ。

 

 掲示画像はそんな品の一例だ。

 袋に入り、金庫の奥に入っていたから、腐食は少ない。

 「ほとんど使われていない品」があるのは、銅貨と同じだ。

 プレス貨幣の場合、打極自体が「傷」そのものなので、「未使用」=「傷がまったくない状態」ではない。

 プレスした直後に貨幣が箱に落ちるが、その時に細かいアタリが出来るし、袋に入れたり、紙で包んで運ぶ際にも傷が生じる。

 人の手を介して流通すると、図案を横断的に掻き傷が出来るのだが、これが見えず、一ミリ内外の小さい筋が「山」に少し見える程度なら、ほとんど流通していないと思う。

 なるほど、鏡みたいな光り方をするのには、きちんとした裏付けがある。

 マイクロスコープで拡大してみたが、製造時の小アタリ以外にほとんど流通の痕がない。

 こういう類の品は、「きちんと保存されていた」か「最近新たに打極した」かの何れかだと思う。

 

 追記)十五年以上前に、米国製の円銀を入手したが、極印自体は違いが分からない。

 極印の製造技術が上がり、殆ど同じものが作れるわけだが、その当時は輪に微妙な筋が入っていた。

 「これが無ければきっと真贋の区別がつかぬだろう」と見て、磨き布で周囲を撫でるとほとんど筋が消えた。知人が「研究するから譲れ」というので「米国製ですよ」と念を押したが、あのヤローはきっと「本物」「未使用」で売ったと思う。

 「参考品のやり取りをしてはいけない」というのはここだ。酷いケースでは「誰ソレから買った品だ」と名前を付ける者までいる。こちらが渡したのは「千円の参考品」であって、未使用の本物ではない。もはや犯罪の域だと思う。

 あれやこれやがあり、すっかりプレス貨幣を忌避するようになった。

 こんなものを面白がる気持ちが分からない。

 もちろん、「食べられぬ葡萄は酸っぱい葡萄」という論理なので念のため。

 

 元野球選手の張本さんが五輪女子ボクシング選手に「女性はそんな競技はやめなさい」と言って非難を浴び、テレビ番組を下ろされた。張本さんの言わんとする意図には「女性が顔に傷を残したら可哀想だ」という思いやりが底にある。

 年寄りだけにそれを乱暴な言い方で言うわけだが、実際には気遣いの変化形だ。

 世間はその辺の底意を理解せず、非難の大合唱だった。

 もしかして、報道の「そんな競技はやめろ」という九文字だけを聞いて、状況を考えずに非難したのではないのか。ま、短絡的反射的に反応するのがネット世代の特徴だ。

 こういう「こころ」が今はまったく理解出来なくなっているようだから、今はアイロニーとか、婉曲的な表現はもはや通用しないのだろう。

 足し算でしかものを考えられなくなっている。

 

 注記)いつも通り、一発書き殴りで推敲や校正を一切しない。よって不首尾は多々あると思う。仮にミスがあっても、これは日記であり情報提供ではないので、一切謝らない。道楽の知見は「自ら切り開く」ものであって、教わるものではない。