日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「金持ちの考えることはいつの世も同じ」

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三州屋銭?と十和田神社奉納銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「金持ちの考えることはいつの世も同じ」

 この二三日は具合が悪く往生した。

 ま、いつあの世に召喚されても構わぬが、大人しく死んでいたりはしない見込みなので、本人だけでなく他の人が「ご愁傷様」の事態になるかもしれん。

 ぼけっとニュースを観ていたら、宇宙からお金持ちが銭を地上に撒いていた。

 思わず、「人間のやることは昔も今も変わりない」と呟いた。

 

 幾度か書いたかもしれぬが、お金を地上にばら撒いた前例は結構多い。

 確か、数年前にも暗号資産で「短期間に数億儲けた」若者がビルの屋上からお札を撒く事件(?)があった。この場合、撒いたのが一ドル札だったから、ややショボいわけだが、仮にコインを撒いたら、下にいて落ちて来るコインに当たった人は命に係わることになる。そこは1ドル札で賢明だった。

 故事にも、この手の話は時々ある。

 経済が発展したり、あるいはその逆に下降するなど、急激な変化が生じると、個人が短期間で財を成すチャンスが生まれる。

 明治維新の直後もそんな時代だった。

 大きな方では、役人と財閥が結託して、尾去沢銅山を強奪するなどの出来事があったが、商人レベルでも没落する者、勃興する者が目まぐるしく替わった。

 盛岡藩で有名な一人が三州屋だ。

 三州屋は明治初中期に瞬く間に財を成したが、絶頂期の時に、やはり銭をばら撒いた。そのやり方も仰々しい。

 神輿に福神の姿をした三州屋夫婦が乗り、盛岡の街を練り歩いた。その途中、金銀に塗った寛永銭を辻々で撒いた、と伝えられる。

 昭和に至るまで、寛永銭は現行貨だったから、使えるお金を撒いたことには間違いない。寛永銅銭は一厘通用だったから、十円~数十円程度の価値観だったのだろうが、おそらく少し額面の大きなお金も撒いた筈だ。

 今ではあまり行われなくなったが、昭和末期までは上棟式の際に餅や銭を撒いたりする習慣が残っていた。この時も金種は様々で、たまに百円玉やら時には五百円札が入った袋を混ぜていた。

 面白いのは、一時の栄華はそれほど長くは続かぬことだ。

 三州屋は往来で「銭を撒いて回る」ほどの金持ちだったが、しかし、その末裔がどうなったかについては、一切記録が残っていない。

 財運が「三代続く」のはむしろ稀ということ。

 

 ところで、昭和の末頃から平成の初め頃、盛岡八幡町に「骨董力」が店を構えており、帰省時には時々、店に寄って店主のK岸さんに色々と教えて貰った。

 ある時、店に行くと、差銭が何本か転がっていたので、それを手に取って見ると、驚いたことに、総てが打刻印銭だった。

 丸に「一」、「十」、「花弁様」などの刻印が打たれた銭ばかりが括られていたのだ。

 K岸さんに尋ねると、「なに。むかしこの辺で打たれたものだよ」との返事だった。

 打刻印銭と言えば、神社・仏閣の上棟銭かもしくは記念銭かと思っていたので、少なからず驚いたが、これは後で「屋台、香具師らも使う代用貨」の類であると分かった。

 なるほど近くに八幡神社があり、例大祭には多数の店が出る。

 全国にどれくらい同様のケースがあるのかは知らぬが、どうやら実用的なものだったらしい。もちろん、明治以降も作られているし、むしろその方が代用貨としての意味を成したのだろう。

 ちなみに、古銭界では一つひとつに色んな由来が語られているが、多くは別物だと思う。

 

 打刻印銭だけでなく、彩色した銭も時々見つかるわけだが、こちらは神社での祈願用のものが大半だ。奉納額にお金を打ち付けるのだが、このお金を赤や金銀に色付けをする。有名なのは十和田神社で、この地域では彩色銭が大量に残っていた。湖からの引き上げ銭にも沢山存在していた。

 掲示の品は、その力さんの店で得た品だが、「商人の銭函から出た」とのこと。

 バラ銭で丁寧に金色に彩色しているところを見ると、どうやら三州屋銭に限りなく近いもののようだ。

 もちろん、証拠は無いから、断定は出来ぬのだが、かなり近いのは確かだ。

 特別に評価されるべき性質の品ではないから、この辺は気が楽だ。

 「そんな意図で作られることもあった」とのみ、申し伝えればよいと思う。

 

 一時、古道具屋を回る度に、打刻印銭や彩色銭が手に入った時があったが、地元の収集家に訊くと、あまり当たったことのない人もいるようだ。そこは巡り合わせと、「足の使いよう」だと思う。北奥の町村部にも古物商が沢山いたが、店を構えぬ業者を一軒一軒訪ねていた時期がある。

 十和田湖底の引き上げ銭は水中にあった割には、酷く痛んではいなかった。