日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ようやく手が離れたが

ようやく手が離れたが
 眼が急に見えなくなった時から四五か月が経過するが、体のあちこちに掴まっていた手がようやく離れた。
 実質的には、二年前の「稲荷の障り」から断続的に続いていたようだ。僧侶の悪縁を追い払ってから半年くらいは小康状態だったが、今度は集団で寄り憑いた模様だ。
 こういうのは、攻撃が一段落しないと状況が分からない。
 体の危機や、人間(じんかん)の危機、心(自我)の危機が重層的に襲って来るのが「障り」だ。

 ま、いつもセルフウォッチングをして、手が掛けられていたり、腕が巻き付いているのを知っていたので、それなりの対処が出来た。
 当方は典型的な憑依体質で、悪縁(悪霊)の目に留まりやすい。
 普通の人には想像もつかぬようなことが、当たり前に起きる。
 スマホが「取り憑いた。取り憑いた」と叫んだり、回線の繋がっていない電話のベルが鳴ったりする。声を掛けられるのは、日常的に起きる。

 ちなみに、一昨日は家人が出勤しているのに、家人そっくりの声で「・・・してくれない?」と言われた。玄関の方角からなので、「早引けして来たのか」と出てみたが、誰もいない。
 家人が帰った後にその話をしたら、あっさり「それは私じゃない。幽霊だね」。
 先週あたりは、とにかく「もう生きていたくない」と思い詰めていたから、かなりヤバかった。
 こういうのがいざ通り過ぎると、「自分で死なずとも、どうせ残りは半年一年だ」と思い直すようになる。
 今は晩年であり余生だから、一層寄り憑かれる面もあるわけで。

 トラや巫女さまの存在を思い描いて、自己回復に努めた時の記憶を呼び起こすと、次第に精神状態が安定する。
 それだけでなく、血が通っていなかった足先にも温かみが差すようになる。
 肩や腰、足首を「掴まれている」感触が消える。

 かつて霊感教会のO先生が言っていたことが現実に起きている。自分なりに修行を続けねば、取り込まれてしまう。
 これから幾日かは穏やかに暮らせるが、今は衰えの道を辿っているのだから、いずれまた近いうちに、寄り憑いて来ると思う。

 誰しも絶望感に支配されそうになる時がある筈だが、その時には「これが本当に自分本来の気持ちであり考えか」と自分を問い質す必要がある。
 その時、他人は助けにならない。家族や友人知人など他者との関りは何の救済にもならない。内省と信仰(あの世繋がり)だけが助けになる。

 

追記1)冒頭の画像はこの文字ファイルを保存しようとしている時に勝手に開いた。

 今では、二枚目の画像のガラス窓に、少なくとも二体の霊体が出ていることが分かるようになった。

 私は霊能者などではないが、経験があるので、どういうところに隠れているかが分かるようになっている。もちろん、判断違いも時々ある。

 この時には駐車場に車を停めた時に浜の方を眺めたが、近くに「穴(この世とあの世の交流点)」があったようだ。私はあちら側から見られやすいので、先方の目に留まり、そのままぞろぞろと旅館の中まで着いて来た。

 幽霊たちはこちらに興味を持ち、覗き込んでいるが、悪意があったわけではない。

 

追記2)ガラスに映る私は、頭頂部が薄く、サングラスをかけ、マスクをしている。

 本来、窓には後頭部が映るはずだが、別の姿に替えられているということだ。

 これはコロナ以前に撮影したものだが、要はガラス窓に映っていたのは「今、これを見ている私」ではないかと思う。

 撮影時点を基準に言えば、「将来の私が映っていた」ということだ。