◎病棟日誌 悲喜交々 1/9 「二級酒が一番」
この日の体重計側担当は介護士のバーサンだった。
「東海林太郎です」
「それなら知ってる」
これで謎が解けた。昭和四十年台後半の名前を出しても、バーサンはピンと来なかったが、「東海林太郎」に反応するなら、それより前が記憶の中核だってことだ。
してみると、七十歳くらいかと思っていたが、このバーサンは七十台後半だ。介護士には結構高齢の人がいる。
穿刺担当は北陸出身のエリカちゃんだった。
「最近、何だか太って来た。一昨年十二キロ痩せたが、三キロくらいは戻ったな。これも最近、日本酒を飲むようになったせいだ」
「でも、この時期は日本酒ですよね」
「十二月から三月は日本酒だね」
エリカちゃんは無類の酒好きで、ワインを買うために山梨の醸造所まで行き、ケース単位で買って来る。
「私は日本酒はワンカップでもいいです。安い酒には安い酒なりの良いところがあると思うんですよね」
「昔で言う二級酒、今でいう佳撰酒は、ヒリッとした感じがいいところだ。俺は高級酒のワインみたいなのがあまり好きではなくて、このヒリッとした、如何にもお神酒に使う感じの酒が好きだね」
「私も」
だが、もちろん、問題もある。
「難点は、日本酒を飲んでいると太りやすいということだ。とにかく太る。俺はつまみをほとんど食べないが、それでも太る」
「あっという間に膨れますよね」
最近、エリカちゃんもかなりぽっちゃりになって来たが、やはり酒だったか。
「お酒って、元々が米なんですよね」
どんぶり飯を貪り食うようなもので、そりゃ太る。
治療が終わり、食堂で昼食を摂ろプとすると、師長がやって来た。師長も昼食を摂ろうと思ったが、休憩室など座るところが無く、食堂の隅で食べることにしたらしい。
当方は最後の方の患者なので、食堂にいるのは、師長と二人だった。
季節がら、この時期の思い出を話した。
「俺が大学院生の頃には、社会統計学が専門だったが、ある時、カウンティングが麻雀に応用出来ることに気付いた」
カウンティングとはカードゲーム(ブラックジャックなど)で使う「残りのカードの枚数を推定する」方法だ。
カードの残りに何が入っているかを知っていれば、手役を予想できるわけで、必勝法のひとつ。カジノではこれが見つかると追い出される。
学生や勤め人までとは違い、リーチ麻雀は「めくり勝負」の要素が強い。要は勝負相手が他の三人ではなく「山」になる。ご祝儀をツモらねば一生勝てないからだ。
「麻雀でも六巡目までの捨て牌で、他のヤツの手の内にどんな牌があるかが概ね想像出来る。ここまでが素人の頭。その先に進むと、山の残り牌に何があるかをある程度推測できるようになる。効率的な切り方には一定のルールがあるからだ」
こんなのは前振りでどうでもよい話だ。
「で、大晦日から三日間雀荘に居続けて、○ボーと麻雀を打ったことがある。二のニ四か三の三六だがのレートだったと思うが、細かいことは忘れた」
ここからがいつもの持ちネタだ。
「死闘が終わるとS会の○ボーに『少し飲んで帰ろう』と誘われた。てっきりスナックででも飲むのかと思ったが、ハイヤーで連れて行かれたのがY原で」
師長は「Sープ道にまい進する」ほどの通なので、ここで目の色が変わる。
「三日間殆ど寝ていないところにビールまで飲んだから、汗を流すのはよいけれど、それ以上は命に関わる。そこで、座って世間話をした」
この先は文字には書けないのだが、要は「どんな変態な客がいたか」という内容だ。本職に聞かねば、想像出来ない。
唯一大丈夫そうなのが、「作業着の中に女性用の下着」のオヤジ。この手のはざらにいるそうだ。上下とも女性下着を着けて、日中は現場監督をしている。で、そのまま店に。
師長が「マジですかあ」と言う。
「他にもこんなのが」と続けようとしたら、アラ四十女子が入って来たので、ここで話は終了。
アラ四十女子に「今まで師長とIさんの前では出来ない話をしてたんだよ」と言うと、「前は全部聞いてましたよ」と答えた。
隣のベッドにいた時に、師長が来てはあれこれ話していたのをしっかり聞いていたそうだ。
病棟も、とりわけ腎臓病棟なら、ほとんど牢獄と同じだから、精神状態が服役囚と似て来るのではないか。常識のタガが外れ、極端な発想をするようになって行く。制約が多過ぎるから、会話で羽目を外してガスを抜かぬと、平静を保てない。
子どもの頃、近所の神社の縁日に行くと、石段のところにいつも決まったオヤジが座り込んでいた。いつも一升瓶を抱えており、へべれけだった。
酒を飲み過ぎて歩けなくなり、階段に座り込んでいたわけだ。
酷い時には、そのまま座り小便をしていた。
「しょうがねえジジイだな」と思ったが、なあに今ではそのジジイと大差はない。くだもごろも巻くが、酒を飲んでも飲まなくとも「癖が悪い」のは同じ。ごろごろ、ごろごろ。