◎病棟日誌 悲喜交々 3/14 「無法松の一生」
朝、検量に行くと、例によって担当が介護士のバーサン。
「阪東妻三郎です」
「うーん。忘れた」
まじかあ。
「阪妻はほれ。田村高廣さんや正和さんの父親で」
『無法松の一生』を全国区の物語に押し上げたのは、阪妻の力によるものだ。阪妻映画の『無法松の一生』は、大学生くらいの時に観たが良い映画だった。九州の小倉が舞台で、トーホグの人間には別世界だった。
息子の高廣さんも舞台で演じたが、これがすこぶる良くて、小学生の当方は舞台中継を観て泣いた。さすがに阪妻の最盛期のことは知らない。そもそも映画は戦前のものだし。
この後、十幾人も松五郎を演じたが、やはり阪妻か田村高廣が一番だと思う。キャラ的には勝新が合っているが、勝新は人力車夫って感じではなかった。
ここですかさず切り返しが来る。
「赤木圭一郎は知ってる?」
「知ってる。でも事故で死ぬ前のことは知らんけど」
赤木圭一郎が亡くなったのは、昭和三十年台半ばだから、その頃思春期を迎えている。十二歳くらい。バーサンは昭和二十三年から五年の間に生まれたんだな。
阪妻が亡くなったのは昭和二十八年頃だから、バーサンはまだ小学生になるかならないかだ。赤木圭一郎が三十六年頃。
ちなみに、阪妻はアラ五十歳、赤木はまだ二十三四で亡くなった筈だから、まさに「人生を駆け抜けた」だ。
昔の人は皆がこうだった。
当方など、無為にグダグダと永らえている。
トシを取ったら「反省は毒」だから、ここで考えるのを止めた。共通点があるとしたら「無法」だったということだけ。
酒の飲み方もまさに「無法松」だった。朝から台所で飲んだ。
ベッドに戻り、ガラモンさんのところにホワイトデイのお返しを持って行った。ガラモンさんはかなり痩せて、外見が若返った。(と言ってもたぶん年下だ。)
茶髪を止めて頭が黒くなったが、そのせいか何だか髪が増え若返ったような印象だ。
だが、しばらく後でガラモンさんのベッドの方に眼をやると、枕元に髪の毛が置いてあった。ウィッグだったわけだ。
髪の毛の量は外見的若さに強く関係するらしい。
じゃあ俺も(w)。
病棟は退屈なので、ビデオデッキを復活させ、『無法松の一生』なんかを観ればいいわけだ。だが、レンタル店にはたぶん置いていないから、買う必要がありそうだ。
『無法松』は三船敏郎さんや勝新など、多くの役者さんが挑戦しているから、これらを比較できる。映画は四本だが、舞台やテレビドラマを含めれば相当数残っていそう。
追記)この日、ちょっとショックだったのは、時々、食堂で一緒になる女性患者の姿が消えていたこと。たぶん、五十台だったと思うが、最後に食事をする患者の一人だ。
食が細く、ひと口二口で止めてしまうので、見るに見かねて、「豆腐飯」などのつくり方を教えた。
話し方やしぐさで「夫とは死別した」「親と同居している」ことなどが推察される。(確かめたことはない。)
トシを取ると、次第に孤独になってゆくが、この人にも影があった。
この日、ベッドの前を通りかかると、別のジーサンが入っていた。
そこで「そう言えば半月前から姿が見えなかった」と思い出した。
この病棟では転院はほとんどない。透析病棟は、探すのが難しく、かつどこも満員だ。いざそこに入ったら、そこで死を迎える。
たぶん、入院病棟に居るのだろうが、戻って来て欲しい。
ここはとにかく、次々に新しい患者が来て、そして去ってゆく。病棟の三分の二は見知らぬ患者だ。
あの女性患者の状況を見て、つくづく「ひとは食えなくなったらヤバイ」ことを痛感した。
当方の最大の危機は一昨年で、うっかり「稲荷の神域に立ち行った」ことで体調を崩した八か月間だったが、食事がほとんど摂れず、横になることも出来なかったので、あっという間に十二キロ痩せた。痩せたのはわずかふた月の間のこと。
その二か月は酸素ボンベを抱えていたが、そこから戻って来られて良かった。
今はもちろん、その時よりも、半年前よりも調子が良い。と言っても「障害者なりに」という程度だが、この数年で初めて「半年後くらいにもきっと生きている」と思う。ま、心臓をひと突きされたら分からんが、当方には巫女さまがついているから。
多くの人は「突然死は予測できない」と思っているかもしれぬが、事故や事件の時でも必ず予兆がある。身体的予兆もあるが、あの世の予兆はもっとはっきり出る。
ひとの死をいち早く悟り、幽霊が沢山寄り憑いてくるからだ。
当方があの世観察をするのは、実際に「死期を遠ざける」効果があるからということ。
ま、自分自身とあの世を「あるがままに受け止める」のは難しい。とりわけ、自分自身の姿を正しく認識するのは至難の業だ。願望欲望で目が曇る。