日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 悲喜交々 11/16 「ベテランは後がつらい」

病棟日誌 悲喜交々 11/16 「ベテランは後がつらい」
 木曜は通院日。
 体重計測の担当が、介護士のバーサンだった。

 そこで「懐びと」の出題をした。
 「宮史郎です」
 すると、バーサンが首を捻る。
 「宮史郎って誰だっけか?」
 おお、昭和四十年代を知るものなら、「宮史郎」を知らぬ者はないぞ。
 ということは、すなわち、このバーサンは「認知症が始まっている」ってこった。
 「ほれ。ぴんからトリオの」
 これでようやく思い出したらしい。
 「ひげが生えた人?でも髭が生えたのは一人ではなかったような」
 宮史郎は髭を生やし、前で歌った人で、他の二人は髭を生やしてはいなかった。別のコーラスグループと混同しているらしい。
 たぶんロマンチカの鶴岡正義さん。
 こりゃ、毎回この手の出題をして、頭を使って貰い、ボケ防止に貢献する必要がありそうだ。

 ちなみに、昭和四十年代に、ぴんからトリオは「女のみち」に始まる「女の」シリーズで、レコードをとんでもなく売った。
 最初の「女のみち」は四百万枚超だが、自主制作だったから、たぶん、十億以上稼いだと思う。
 時代は違うが、「ロード」のあのオジさん(名前が出て来ない。当方もヤバイ)も自主制作だったから、十五億を稼いだ。
 宇多田ヒカルも「オートマチック」で五六百万枚売ったが、こちらはレコード会社経由だから十億くらいだったか。印税だけ。

 ところで、宇多田ヒカルのお母さんの藤圭子さんは昭和四十年台が全盛期だったが、この頃の毎月の報酬が現金精算で「段ボール」だったそうだ。
 半年以上休みがまったくない生活をしており、その段ボールが「押し入れに積み重なっていた」らしい。銀行に行く暇もなかった。
 この時の金銭感覚が生き方を変えてしまい、最初のダンナとは離婚。次のダンナとも離婚結婚を複数回繰り返した。
 金銭感覚がマヒしたままカジノに嵌ってしまい、娘に金をたかるようになった。ついには元夫や娘がマジギレし、手切れ金として三億渡したが、それもあっという間にカジノに消えた。
 このため、歌手に復帰したが、晩年はマネージャーのマンションに居候する生活だったらしい。
 よく「三十を越えた男は変わらない」というが、「女はだいたい、一生変わらない」と思う。

 治療が終わり、食堂に行くと、バーサン患者たちがいた。
 この日は普段より早く行ったから、先の患者がまだ残っていたわけだ。
 一人のバーサンが、「ここに来る時には元気だけど、(治療が)終わった後は立っていられない」とこぼしていた。
 それを聞いて、「ああ、ベテラン患者なのだな」と思った。
 腎不全になり治療を開始し数年経つと、次第に治療そのものがキツくなって来る。通院日には帰宅後、寝たり起きたりになる。
 今の当方も同じだ。
 「ということは、すなわち俺も同じベテランなんだな」
 色んな意味で、足音が間近に聞こえる。
 ま、こんな状態でなくとも、当方の年齢であれば、次々に旅立っていく。

 宮史郎さんは六十八歳くらいで亡くなった筈だが、死因は「多臓器不全」だった。それなら、最後は当方と同じ腎臓病棟にいたと思う。
 と書くと悲観的に読めるかもしれぬが、当事者的には全然そういうことはない。
 老病死は必然で、あとはそれをどう受け止めるかという話だ。
 その意味では、「あの世観察」はもの凄く役に立っている。