日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 悲喜交々11/04 「奥村チヨ」

◎病棟日誌 悲喜交々11/04 「奥村チヨ
 この春から、病棟に七十台の介護士バーサンが入った。
 主に体重測定や、ジジババ患者の世話を担当している。
 体重測定の時には、患者が自分の名前を言うのだが、当方は齢の近い五十台看護師が当たると、お茶らけて昔の有名人の名前を言う。それ以下ではそもそも昭和の有名人など知らない。
 最近、「七十台のバーサンにも通じるのか?」と疑問に思い、試しにこの介護士の時にも言ってみることにした。

 「渡辺はま子です」
 「神楽坂はん子です」
 だが、バーサンは首を傾げるばかり。
 ぎりぎり昭和40年前後の芸者系歌手が分からないらしい。
 この日は、思案した挙句、優しい出題を出すことにした。
 「奥村チヨです」
 「ああ、それなら知ってる」とのこと。
 奥村さんの全盛時は四十年台の半ばだろうから、その頃にテレビを観ていたわけだ。
 ここで気付く。
 「あれあれ、このバーサンはてっきり七十三四歳かと思っていたが、もしかすると、割合若いかもしれん」
 六十七八だったりするのかも。
 それなら、もっと際どく攻めねばならん。
 (一体、何を攻めているのかはともかく。)
 次はとりあえず、誰でも知っていそうな「青江三奈」だろうな。でも、この人の場合は昭和五十年台でもテレビには出ていた。
 攻めるなら、三十年台なのだが、しかし、「芸者ワルツ」の神楽坂はん子を知らんとなると、いいとこ「東海林太郎」くらいなのか。
 記憶の中心から、その人の年齢を当てるのは、割合正確に出来て、五十三くらいより上か下かで、記憶にある芸能人が違う。
 五十八くらいからは、六十台の感覚と繋がっている。

 このネタづくりもあり、昭和の歌手や映画スタアはよく観る。
 五六時間もベッドに寝ている必要があるから、退屈でそうするわけだが、ここは「ようつべ」が無かったら耐えられぬと思う。
 寝返りも打てぬ状態で固まっている必要があるから、「我慢をする」のがその日のテーマになってしまう。

 昭和二三十年代になると、直接の記憶は無いのだが、それだけにむしろ新鮮だ。
 笠置シヅ子さんなどは二十年代の大スタアだが、最近やたら音源が沢山出ていると思ったら、NHKのドラマがあったわけだ。
 そっちに興味はないが、本物の笠置さんの歌を聴くと、さすが全盛時のものは最高だ。
 そもそも、当方は普段の鼻歌が笠置さんの「買い物ブギ」か、美空ひばりさんの「東京キッド」だし。
 わてそんなのよう言わんわ。

 笠置さんと言えば、記憶に残るのは、「関西のオバサン」の姿だが、昭和二十年代では、まだ二十台で細く、可愛かった。
 けして美人ではなかったと思うが、やはり若いうちに芸能人になる人はそれなりの魅力があったわけだ。
 女優の高峰秀子さんが一緒に出る音源もあるが、二十年代の高峰秀子さんは、輝くオーラがあり、まさに「女優さん」だった。
 日本の「女優」さんは、吉永小百合さんあたりまでと見るのが正解かもしれん。
 数千人の群衆の中に入っても、「女優」には独特のオーラがあり、一人だけ輝いて見えたそうだ。

 当方は「いよいよ」が近づいているのか、左足の人差指の爪が剝がれていることに気付かなかった。
 神経障害が進んでいるのかもしれんが、どこかで引っかけたらしい。病棟のベッドで発見したが、血がダラダラ。
 で、血を見ると、急に痛くなって来る。
 新しい非常勤医が来たが、動脈硬化の進んでいる患者の足の不具合は怖いので、あれこれと指示して行った。
 今回もたぶんKOの女医だった筈だが、この七年ではまともな方だ。薬の扱いに慎重だと好感が持てる。
 だが、どうみても体重が九十キロくらいありそうで、「お前も自分の心配をしろよ」と言いたくなる。

 ま、それも余計なお世話で、
 わてそんなのよう言わんわ、って話だ。