◎病棟日誌「悲喜交々」 十月十一日の雑感 「女影」
私は心臓の治療が原因で腎臓を壊し、腎臓病棟に通っている。
この病棟には、色んな病気を経由して来るが、四十台の患者は少なく、年齢層が高くなるに従って患者が増える。
七十台八十台でこの病棟に来ると、日頃元気そうにしていても、ある日突然、車椅子に乗るようになる。
車椅子からは割に早く、ひと月内には入院病棟に行く。
そして、そこから戻って来ることはない。
人生の終末は、心肺機能の不全か腎不全だ。ここが事実上の終着駅になる。
同じ病棟に当家の御近所に住む八十代男性がいるのだが、今日はこの人が車椅子に乗っていた。
もはや全身の機能不全だろうから、「原因がよく分からない」状態で弱って行く。
つい数か月前には、私もその状態だった。
ま、私は絶対に車椅子に乗るつもりは無い。母みたいに、亡くなる当日まで自分の足でトイレに行く。
さて、この日は看護師のO君が当方の止血当番に入った。
すると、「何だか女の人の化粧品の匂いがしますね」と言う。
「女出入りが激しかったからなあ」でトボけて、ひとまず真面目に「洗濯洗剤の残り香じゃねえのか」と答えた。
ま、洗剤と化粧品の匂いは少し違う。
先日の「女」の一件があるから、少し薄ら寒い。
日中はよほどのことが無い限りあの世の話はしないが、前にO君にはした。後ろにはっきりとバーサンを連れて歩いていたからだ。
今はバーサンではなく、三十台の女性だ。ついこないだは、顔が女性に変わっているので、それがO君だと分からなかった。
「女影が差しているけど、誰か女性に会ったか?」
年の頃は三十三四。生きている人かもしれん。
するとO君は首を横に振った。
「いやあ、彼女もいませんし」との答えだった。
だが、好きだった人がいたようで、かつての「誰か」のことが忘れられずにいるようだ。
「他の女性と付き合う気になれなくなってますね」
この気持ちはよく分かる。何故か分からんが、その女性でなくてはしっくり来ないわけだ。
ここで我に返る。
こういうのは、病棟のベッド脇でする話じゃないよな。
「化粧の匂いがする」でドキッとさせられたが、ま、こんなもんだ。
新しい女性と付き合えば、徐々に考え方は変わって行くのだろうが、トシはどんどん取って行くから三十台のうちにかたを付けぬと、長く独身のままになってしまう。
考えられんな。
傍に女性がおらずして、何が人生なのか。
ま、私の場合は、近寄って来る女性は「既に死んでいる」ことが多い(笑えない)。
ちなみに、普通に亡くなって幽霊になると、「こうありたい自分」に近づこうとするから、割合、細身できれいな顔立ちをしていることが多い。かたちは整っているが、逆にそれが死人の凄さを倍増させる。
幽霊の方は「(自我として)の生き残り」をかけて、他の幽霊を取り込んだり、人の心と魂に入り込もうとしたりする。
ある意味必死だ。
死ぬと「個(人)」としての統一性は徐々に失われて行き、断片的な記憶や感情しか残らなくなるが、それが成仏だ。
でも、そのことで再編成が可能になり、また生まれ変ることが出来るようになるようだ。
一人が別の一人に生まれ変るわけではなく、何千人の断片的な記憶や感情をシャッフルしてすくい上げたのが新しい個人だ。
たまに、断片的な「前の人生の記憶」を持つ子どもがいるのはこういう事情による。
新しい人生が始まり、自我が確立されると、前の記憶は意識に上らなくなる。
昔の人は実はすべて承知していたが、それをそのまま伝えても理解されぬので、子どもを諭すように、少しデフォルメしてお経に記した。
人の「生き死に」の有り体は般若心経に全部書かれている。
私が「自分は人生の終盤にいる」と分かるのは、毎日「何者か」に寄り憑かれるからだ。
普通は肉体が自我を包み守ってくれるのだが、私はもうそうではない。自我を隔てる垣根が低いから、簡単に飛び越えられる。
人が普段あの世の所在を感じないのは、体と心が独立しており、浸食されにくい状態だということだ。そのことで自分なり、自分だけの人生を楽しむことが出来るから、最も幸福な状態とは、「あの世のことを全く考えずに済む」暮らしのことだ。
あの世と隔絶されていれば、あの世は「存在しない」のと同じ。
もちろん、いずれ体が弱る日も来るし、あの世に直面するという事態も必ず起きる。
いずれそういう時が来ることを頭のどこかに入れて置く必要はある。
「見えぬから存在しない」と信じ込むと、自分が死んだことも知らずに、ひたすら徘徊する者の仲間に入ってしまう。
生きている人の数よりも、そういう幽霊の方が多いようだ。
幽霊は特定の光の波長域でしか見られぬから、日常的に目にすることがなく、存在に煩わされることはない。可視域の広い者は、目視する頻度が増すわけだが、時々、視界にほんのちょっと入るだけで、かなり煩わしい。