


◎誰の声なのか
六十歳を越えたところで、「突然自死する」というケースを調べている。
タレント・俳優なら、ダチョウUさんとか、俳優のWさんが記憶に新しい。
ところが、一般の勤め人でも、定年後にぽっくりと自死してしまうケースは割とあり、自死率カーブのちょっとした波になっている。
仕事の一線を離れ、役割が幾らか軽くなるのだが、ちょうど体のバランスも変わる頃だから、心身が変調することが背景にある。
家族や知人が口を揃え、「そんなに深く悩んでいたとは」と驚くケースだ。
ダチョウUさんの場合は、アル中気味だったようだが、これには喜怒哀楽の波が激しくなるという症状がある。Wさんの方は、同じ年齢層からみると健康そのもののように見えるし、仕事も順調だった。何に苦しんでいたのかが分からない。
生活苦のような直接的負担が無い方が「ふわっと自死する」ケースが多いのだが、目の前に課題があれば、悩んでいる場合ではないからだろう。
今月のやりくりを考えている状況では、内省する暇など無い。
あるいは、持病があったりすると、そっちの対応に気を取られるから、やはり悩んでいる暇はない。
だが、やはりこの年齢層には、皆に同じような危機があるようだ。
私は割と我慢の利く方だが、やはり時々、「このまま生きていても仕方ない」と思うことがある。
ま、私のような境遇だと、自ら死を選ばずとも、治療を放棄しただけで、自然死できる。温泉に逃避行を十日もすれば、その先で死ねる。
自死を選ぶ時、たぶん、頭の中では「声」が聞こえていると思う。
もちろん、自分の声だ。
「この先には何もない」
「生きていても仕方がない」
「もう疲れた」
私の場合は、こんな考えが頭を過ぎった時には、習慣的にこう考えるようにしている。
「これは果たして自分自身の考えか」
「誰かが、絶望感を吹き込んでいるのではないか」
常に注意深く自分と周囲を観察している内容は、こういうことだ。
幸か不幸か、私は「自分ではない誰か」が寄り付いている場合は、それを認識出来る。
「感じる」という次元ではなく、写真に撮れるから、実体として存在を認識できる。
「怒り」や「憎しみ」、「悲しみ」「絶望感」に「苛まれる」という言い方があるが、「苛まれる」には多く他動の意味が含まれている。
これまで、人の肩の後ろに「人影(幽霊)」が取り憑いている画像を沢山撮影して来たが、あれは間違いなく、「誰の身にも、日常的に起きている」ことだ。ただ、それと気付かぬだけ。
まるでホラー映画みたいだが、こういうヤツは直接その人に何かをするのではなく、「心に働き掛ける」部分が大きいようだ。
自死を考える人には、同じように自死した者が寄り憑き、「もう死んでしまおう」と囁く。まるで自分の声のように聞こえるので、殆どの人はそれが自分自身の考えや感情だと誤認する。
この場合、自分の経験したことと同じことをさせようとすることの意図は、経験と感情を共有することで、魂が肉体から離れた後に同化(一体化)しやすくするためだろうと思われる。
幽霊には自我を強くする手段である五感がない。何らかの手段で補強しないと、自我が崩壊してしまうから、他の者の自意識を自分に取り込む。
生きている者はこの理屈が分からないから、「悪霊が災いをなさしめ、最期はその人を殺す」みたいな発想をするのだが、幽霊にとっては人の生き死になどどうでもよい。自分自身が既に死んでいるのだから当たり前だ。
幽霊の振る舞いは、「自我(自意識)を失うまい」とすること、すなわち、幽霊としての生き残りを目的として、他の幽霊や生きた人間にしがみつく。
さて、こういうのを分離する方法は簡単だ。多くの場合、お祓いや祈祷は必要ない。
ただ、「これは自分自身の気持ちなのか」と問い、、自分の考えと他者の考えとの間に境界線を引くことだ。そして、次に誰か別の者の思いを「これは自分の考えではない」と否定することだ。
「絶望を吹き込んで来るのは、けして俺自身ではない」
「お前は誰で、どこから来た」
相手との間に線を引き、別人格として追及することが重要で、「憑きもの」は自分と同化できぬと判断すると、自ら離れて行く。
「あの世」ときちんと向き合い、対処を心掛けることの効用はここにある。
その手続きを通じて、結果的に、自死しようという気持ちが失せている。
「生きててナンボだ。今はどんなに苦しくとも、生きていればよくなることもある」
それをただ単に「あの世の所在を信じる」程度の次元ではなく、「現実」として眺めることが必要だ。
そしてそのためには、きちんと画像に残すなど、事実を集め証拠固めをすることが重要だと思う。
ひと言で言えば、あの世観察の効能は「いたずらに人生を諦めずに済むようになる」ということだ。