◎「お友達の帰還」(628)の補足事項
今に至る分岐点は昨年の十一月七日だ。この時にぐさっと脇腹に差し込まれており、今も痛みがある。
この辺から、「お友だち」がさあっと周りから退いて、何も感じなくなった。
いずれにせよ良い兆候ではないわけだが、その境目が分かるだけまだまし。
普通は原因がはっきり分からずも「何かがおかしい」と気付けば、闇雲に祈祷師や霊能者のところに行く。
僧侶に一番短い読経を頼んでも五十万はかかるから、本格的なお祓い(浄霊)なら、たぶん百万はかかる。
説教もせずに読経をしてすぐに帰る坊主どもと違い、祈祷師は命が懸かる場合もあるから、別にこの金額でも高額過ぎるわけではない。盲腸の手術でも総額は百万を超える。
もちろん、その祈祷師が「本物なら」という場合の話だ。
仮に逆の立場(頼まれる側)なら、報酬が幾らでも「やらない」と思う。これは、幽霊が自分に乗り換えることがあるためだ。
ま、殆どの祈祷師・霊能者は本物ではないから、触りも無い。効果が無いだけ。
「壷を売る」ような者は、もちろん、論外だ。
物で幸運を買うことは出来ない。当たり前だろ。
ちなみに、障りを取り除く方は、どちらかと言えば、「念域」の活動になる。念力の圧力で、悪縁を遠ざける。これに必要なのは専ら修練であって、霊感ではない。
失せ物を探し当てたりするのも、念域の力だ。この辺はほとんどの場合、混同されている。
さて、煙玉の方は、この差し込みに対する私側の反応ではないかと思う。具合が悪くなる時も出るから、そもそもこの状況下での煙玉は「異変が生じたことの影響」ということ。
この二週前に、某所で「蜘蛛の巣が頭にかかった」ような感触を覚えたが、その後、連続して異変が見られた。ただ、アクリル板の画像を見ると、以前、N湖の湖岸でも見たことのある顔だから、もしかすると、前から目を付けられていたのかもしれぬ。
ただ、不浄の者はどれもこれも同じような表情をしているので、いつの時点の者かははっきりとは分からない。
ま、原因(因果)はどうでもよい。名だたる霊能者たちでも十人が十人とも別の因果を語るものだ。
過去最高の霊能者が英国にいたが、ある研究者がその男の見たものが現実と一致する割合を調べた。結果は概ね40%くらいだったそうだ。
これを「半分も当たらぬ」と見るか「半分くらい当たっている」と見るかは、受け取る人の判断だ。
初対面の人に「この人の母親はこの人が五歳くらいに亡くなっていて・・・」と語る内容の正確さが40%なら、私はそれこそ「とんでもない高水準」だと思う。アリエネー。
普通の霊感占いは、別の担当者が事前に調べているか、「仕込み(サクラ)」を使う。治験者は必ず霊能者が選んだ者だ。要はトリックと心理学の応用だ。
そもそも、現実と当たっているか当たらぬかは、幽界・霊界にどれだけ通じているかとは関係ない。
壁の向こうにボールを投げつけ、それが向こうの道を歩いていた人に当たったからと言って、投げた人が「見えていた」ことの証明にはならない。それと同じ。
物音や気配の方向に向かって大雑把に投げても、当たることはある。
ブラジルのある「予言者」は、毎月、「日本のどこかで自身が起きる」と予言しているが、場所が日本ならそのうちいつかは、そんな「地震予知」は当たることになる。
その当たったところだけを強調し、外れた部分を消してしまえば、ほれ「百発百中の予言者」の出来上がり。インドの少年もこの手法だ。
この世の者は、あの世(幽界)の者を検知する感覚・検知能力をほとんど持たない。
あの世の者も、生きている者については、感情の「ゆれ」を感じ取れるだけだ。
互いにそのほんの僅かな気配を、想像で補っているだけ。
霊能力などそもそも存在しないのだ。
かたや双方がお互いを検知し難いから、安らかに暮らせる面もある。
常時、「あちこちに死人が立っている」と認識するのなら、人生全体が暗くなってしまう。
この世に近いところに居る死人(幽霊)は、執着心があるからそこにいるので、どんなにましな幽霊でも、一様に薄気味悪い顔をしている。
私が捕まっていれば、程なく病死するか、事故死するか、自死するかもしれぬ。
でも、どうということはない。
そもそも十年以上前から、いつ死んでもおかしくない状況にある。
いまさら何を怖れることがある?
ひとつだけあるとすれば、今の状況で死ぬと、私自身がコテコテの悪縁(霊)になる可能性が高いことだ。たぶん、この世に出て来られると思う。
その時には、誰彼構わず前に立ち、その人の悪行を露わにして破滅させようと思う。
私の仲間は、ずっと前からアモンやイリスたちだったような気がする。
そうなるのが怖ろしいので、年間百五十日から二百日も神社やお寺に通い、なるべく心を浄化するよう努めている。