日刊早坂ノボル新聞

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◎循環器科にて医師と「あの世」の話をする

循環器科にて医師と「あの世」の話をする
 水曜には循環器科の主治医のところに行き、下肢ABIの検査をして貰った。
 現実に足指の先に血豆が出来、それが半ば崩れていたので、すぐにも組織が壊死する可能性があるから、診て貰うことになったのだ。
 死ぬの構わんが、両脚を切断されるのはしんどい。
 家族の厄介者になってしまう。
 障害を持つ人の本当の気持ちは、実際になって見ぬと何ひとつ分からない。現実に自分が内部障害者になってみると、こうなる前に考えていたことなど、思慮が浅くてため息が出る。

 パンツ一丁になり下肢の血圧と血流検査を受けた。
 その後で、初めての器具で血流の流れのチェックを始めた。
 すると、医師がすぐに看護師に言った。
 「こりゃダメですね」
 えええええ!やっぱりそうなのか。
 しかし、こんなにあからさまに患者のことを「ダメ」と言うものなのか。
 看護師の方は「あれ。やっぱり駄目ですか?」と問い返した。
 「電池切れですね」
 なあんだ。ダメなのは器具の不調のことを言っていたのか。

 検査が終わると、医師が今度は私に向かって言った。
 「なんだ。もっと酷いことになっていると思っていたのにな」
 送り状を読んで、私の「足先が崩れ、黒変している」と思っていたらしい。
 実際、血豆が崩れ、歩くのがしんどいほどだが、まだ歩けぬほどではない。
 「膝から下は血管が細いから、掃除が難しいし、やってもすぐに塞がるけど、調べときますか?」
 長い付き合いなので、医師の腹は分かる。
 「調べる」とは動脈にカテーテルを挿入して調べるということだ。
 これは差し迫った治療をするまで酷くないが、「新米医師のための練習台になれよな」という意味だ。

 「いえいえ。今は止めときます」 
 コロナの余波で、呑気に入院などしていたなら、すぐに破産だ。
 ま、いずれにせよ、いずれは足を切る可能性が高いし、そうなった時には半年以内に弱って死ぬ。
 血管年齢は既に七十台後半だもの。
 「整形外科の方に回ったら、あっちの先生はすぐに切断するからね。ま、膝から下は血管が細いから、掃除をしてもまたすぐに塞がるけどね」
 「じゃあ、細目に来てご相談させていただきます」
 
 ここで話は心臓の方に移った。
 「心臓の方は特に問題ないです。もちろん、私なりにということですが。五六年前よりむしろ調子が良いくらいですね」
 「そうですか」
 ここでふと思いついた。
 この医師は循環器科の医師だから、ひとの生き死にを沢山見ている。
 もしかすると、「黒いひと」を見たことがあるかもしれん。
 「先生は霊の存在を信じますか。これは死後も何らかの存在が残るという意味です。自意識が消えて無くならない。ま、ひと言で言えば幽霊と言う方が簡単ですけど」
 すると、少し想定とは異なる答えが返って来た。
 「実際に見たことはないですが、あると思いますね」
 ああ良かった。ひとつ間違うと小馬鹿にされ、以後は「変人扱い」になる。この姿勢なら対話が成り立つ。
 「さすが先生は科学者だ。古今東西で、必ず死後の話が残っているし、想像の産物とは思えぬ事例が沢山ありますね。『ある』を前提に検証するのが筋です」
 私は口頭で「あの世」の話をすることはほぼ無い。
 どうせ聞く耳を持っていないし、瞼を固くつむっているから、目の前に出して見せても「見えない」「いない」と言う。
 いつも言うが、「固く眼を瞑り、耳を閉じている者には説明しても無駄」だ。
 ま、実際には見えてもいないのに、「私には霊が見える」と騙る者も多い。その人が直接見て言っているか、単に想像を語っているだけは十秒で分かる。その人が物事を言い当てるかどうかは関係ない。人間の行動には共通性があるから、推測でも当てられる。

 「お医者さんの中には、亡くなる直前の患者さんの後ろに黒い影を見た人がいます。ひと型の影でぴたっと背中に寄り添っています。私はつい二周前に、自分に抱き付く影、これのことを私は『黒いひと』と呼んでいますが、こいつが私のことを背後から羽交い絞めにしているのを画像で確認しました。その後はひたすらお祓いの日々です」 
 「霊を見るんですか?」と医師が問う。
 「山ほどです。子どもの頃から亡者の群れに追い駆けられる夢を観ますが、どうやら現実と関わっているようで、写真にも写ります。異形の者ばかりで、まさに百鬼夜行です」

 そこから昨年一年の経験を話した。
 稲荷の眷属に取り憑かれ、一年近く苦しみ、体重が十二キロ以上落ちたのだ。
 「他の人が言うなら、ただの妄想ですが、私のは裏付けのある妄想です。幽霊が写真に写りますから」
 やはり不鮮明でも、きちんと画像があるのは強い。
 今では加工をすれば簡単に作れるはずだが、私にはそんな意図はない。一般に受けるつもりなどさらさらなし。宗教を語るつもりも無ければ、霊能者を気取ることも無い。
 他人を助けようとも思わない。これは書いとかないと、時々、「困ったことが」と相談に来ようとする者がいる。
 祈祷師や霊能者のところに行けよな。
 私が助けるのは、普段から瞼を開き、耳を傾けており、私のように因果(業)を背負った者だけ。

 「お祓いはどこかに頼んだのですか?」
 「他力のお祓いなど役には立たんのです。自分で解決しないと、また戻って来る。こういうのは自分でやります」
 世間に流布している「悪魔祓い」は、祈祷師や神父のお祓いで解決するところまでで、その後どうなったかについては語られない。
 プロに頼んで悪霊を祓い除ける行為は「棒でしっしと追い払う」ことと意味は同じだ。玄関が開いたままなら、門番が去れば、また来る。
 祈祷師がそのことを言わぬのは、客が再び相談に来る「リピーター」になるからで、商売の種だ。悪霊は客を生かさず殺さず程度に付きまとってくれた方が助かる。
 また、家に僧侶を呼んでお経を上げて貰えば、五十万百万はかかる。
 これが悪魔祓いになったら、「とりあえず百万から」ということだ。悪霊が本物なら、本物の祈祷師にも命の危険があるから、特に高額なわけでもない。
 だが、大体は両方とも「コスプレ」だけ。

 気が付いたら、三十分近く私の方が話していた。
 次の患者さんに迷惑が掛かるかもしれん。
 「幽霊はまだ可愛い方です。どこか人間臭さがあります。ですが『黒いひと』になると、あの中はすっかり闇で、心があると感じさせない」
 「そうなんですか」
 「私自身の危機は自分で分かりますから、それを感じた時には走って来ます。またよろしくお願いします」
 で、ここでまた思い出した。

 「写真がありますが、ご覧になりますか?」
 スマホには、あまり怖くないものが数枚入っている。
 バッグからスマホを取り出そうとすると、医師が慌てて、「いや結構です」と断った。
 その時の医師の引きつった表情で、やはり科学者でもこの領域は「常識の範囲外」なのだと痛感した。
 やっぱりコワイらしい。
 ま、ある時「たまたま写った」画像ではなく、私は自分から撮影しに行って、環境条件を整えて撮影しているから、「偶然」「たまたま」のつけ入る隙が減る。
 そもそも、同じ神社に年間百数十回も通っていたのは、神殿前のあのスペースが、ちょうど「実験室」と同じで、環境条件を一定に保てるためだ。

 ここで話を切り上げることにした。
 「病気の治療は医療でお願いします。あの世の方は私に訊いてください」
 この医師は十数年来の主治医で、私の命を救ってくれた当人だ。

 会計に行こうとすると、廊下で看護師に話し掛けられた。
 「私とか、普通の人でも写るんですか」
 やや、さっきの診察室にいた看護師ではないぞ。
 どうやら、隣の診察室の看護師が話を聞いていたらしい。
 「幽霊は普段は『眼に見えぬ煙』なんですよ。これがひとのかたちに実体化して、光の角度などの条件が合致すれば、撮影できる可能性が高いと思います」
 百枚撮影して数枚程度だが、鮮明不鮮明の程度はあるとはいえ、現実に撮影出来ている。

 病院を出る時には、心底より胸を撫で下ろした。
 しばらくは施術を受けることが避けられる。
 さらには、脚を切ることも、まだしばらくは先だ。
 検査結果を見ると、別の病院でのそれより、幾らか数値が良くなっていた。ま、毎日二時間くらい温熱療法をやっている。

 さて、私の旅はまだ続くぞ。
 働けぬ体なので、生活問題が大変だが、自分なりに前進しようと思う。 

 

追記)「机に置いたスマホに勝手にスイッチが入り、お前に『取り憑いた』『取り憑いたぞ』と叫ぶのです。ホラー映画みたいでしょ」と言うと、医師の顔が引き攣っていた。ま、正確には『憑いた』『憑いたぞ』なのだが、意味を伝えるためには少し加筆が必要だ。

 この医師は私と同年配(たぶん、数歳下)だが、科学者気質で、考え方が実証的だ。

今は何が起きてもほとんど驚かなくなったが、私には幽界は信じるとか信じないとかいう話ではなく「現実そのもの」で、あとはこれをどう操縦するかというテーマだけだ。