日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭について(続き) 八戸の常平通寶」

◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭について(続き) 八戸の常平通寶」

 ようやく収集に対する思い入れや執着心が消えた。ま、先を見越して収集品を手放したことで未練が無くなった。存命中に総ての処分を終えるコレクターはほとんどいないが、私がその一人になる。ま、棺桶にコインを入れても始まらない。

 さて、まずは思い出話から。

 二十五年くらい前には、鹿角の解体業者と繋がりがあり、ウブ銭を幾度か融通して貰った。同じように接触している好事家が複数いるから、最初に思い出して貰えるように、時々は自宅を訪問して挨拶をする。もちろん、多めの手土産持参だ。

 北奥に用事が出来た時には、必ず足を伸ばし、電話帳を頼りに町村部の古道具屋などを回った。九十年台は発見が多く、割合楽しいことが多かった。

 今は古道具屋がリサイクルに取って代わり、店主と長話をする機会も無くなった。

 蔵出し状態で完全なウブ銭を直接帰る機会も、今は殆どないのではなかろうか。

 ネットオークションで「ぽい」品を買ったところで、手つかずの確証はない。

 状態によって、「幕末明治初期のもの」「明治末から大正初めのもの」「戦後まもなくのもの」で決まった梱包の仕方があるので、それを見るところから収集が始まるのだが、これにより「実際の流通の仕方」「使われ方」が推定できる場合がある。

 ネットオークションで良さげの品を買い集めたところで、それが実際に使われていたかどうか、どう扱われていたかなどの知識は得られない。

 包み紙一枚で色んなことが分かるのに、コレクターの多くはすぐにバリバリと開封して、撰銭を始めてしまう。他人に「自慢出来そうな金屑を集め、知見を捨てる」振る舞いだ。

 

 話を元に戻すと、その頃、十和田駅の近くに小さな古道具屋があった。屋号店名が無く、ごく普通の事務所か商店に品物を置いていたので、店の名前も知らない。

 家族で十和田湖から八戸まで旅行をした折に、たまたま見掛けたので、立ち寄ってみたのだが、がらくたに混じって古銭も置いてあった。

 値札を見ると、「一枚三百円」と記してある。雑銭一枚が三百円均一だ。

 「これじゃあ、買える人がいないな」と思ったが、念のため、「中を検めても良いのか?」と訊くと、「OK」との返事だ。

 なるほど、自分の好きな品を選んでよいなら、その枚単価は当たり前だ。

 だが、めぼしい品を選んで「これを」と申し出た時に、「やっぱり売らない」と言われることもあるあるから、「ごく普通の銭も十枚くらい足す必要がある」と思った。

 それなら、どれが本当に欲しいかが分からぬし、一定の売り上げになれば、店主が前言を翻すことも無い。自分にとって良さげな品だけを拾うのは浅ましい。店側にも利益を提供することで「ウイン・ウイン」の関係の基礎が築ける。

 家族連れでもあり、とりあえずろくに見ず、二十枚くらいを買った。

 銭の役はどうでも良く、関係の「口開け」の挨拶だ。

 商売を安定して続けて貰わぬと、客が品物を目にする機会が損なわれる。常に「買い手売り手の双方が得を得られる」姿勢を保つことが重要だ。

 この辺は、「手の上の金屑」と「モニター」ばかり眺め、「出掛けるのはせいぜい古銭会」程度だと、何ひとつ分からない。古銭の分類みたいな小さな知識に通じたところで、人と人間関係が分からずに、何の意味があるのか?

 「お前の収集は、ただの自己顕示欲に過ぎないのでは」

 これは、時々、自分に対して問うていた言葉だ。なお、他人がどのような収集をしようと、与り知るところではないので念の為。道楽なんだし好きにやれば宜しい。

  私自身がそれではダメだと思うだけだ。その結果、オークションには出ずに、ウブ銭の収集の方に専念することにした。たまにネットオークションは見たが、こちらはがらくた市で、当初の頃より品数が少ない。

 

 さて、家族がいたので、その日は予定のホテルに向かったが、後日改めて十和田に赴いた。駅の近くに駐車場が少なく、空きが出るまで暫く待たされた。

 店を訪れると、前の通りに古銭の山がある。

 そこで、店主に挨拶をし、撰銭を始めた。

 ここからの話は前にも書いたが、銭の山の上に密鋳の背盛母銭がぽろんと載っていた。非浄法寺系の背盛の母銭は、みすぼらしいが、極めて希少な銭種だ。

 公営銭座と繋がりのあった職人がいない限りは、銭の密鋳を試みる際に、母銭の手配に苦労をする。まずは、密鋳を試みた者はそれを作るための背盛の母銭をどこで手に入れたのか。難しい筈だ。よって、「入手が難しいから背盛密鋳が少ない」という傾向を生む。まら背盛は領内通用銭だから、無背の銭(仰寶など)の方が望ましい。

 鉄銭だけに、それを作るための母銭はあまり立派でなくともよいわけで、多くは通用銅銭の改造母を使用した。当四銭なら俯永とか小字などだ。

 逆に言えば、それなのに何故わざわざ背盛を使用したのか。

 興味深いこと限りない。

 

 ともあれ、二十枚ほど選び、それにやはり普通の品を足して、勘定が一万円になるようにした。それに古道具類を足して数万円分の買い物をした。

 これで話の糸口が出来るから、そこで初めて「東京で古銭会をやっている」と伝え、「ウブ銭が出た時にはよろしく」と依頼した。

 古銭のウブは家屋解体くらいの時しか出ぬから、入手機会は年に一度あるかないかだが、その時に最初に自分の名前を思い出して貰う必要がある。

 だが、この店主からは、以後はさしたる品が入って来なかった。そもそも、出物が少ないから、ウブ銭に当たるのは難しい。

 ただ、五六度目かに店を訪れた時に、店主に「切手はどう?」と口を向けられた。

 「満州から帰って来た人が満州切手の全揃いを持っているけど、買ってくれない?」

 バブル崩壊以後、切手の収集がすっかり下火になり、扱いが金券屋主体になっていた頃だ。要はコレクションの対象ではなく、額面割れの扱いだけ。

 「小学生以来、集めていないし、判断がつかないのですよ」

 見ないで「十万」と言えば、売っただろうし、たぶん、「五万」でも買えたと思う。

 「三万」なら値付けとして失礼の域だ。

 本物の小判が入札に出たとして、「三千円」と値を振ったら、やはり失礼だ。

 あるいは詐欺師。穴銭の手替わりなどとは扱いが違う。後者は自己満足の評価だが、小判なら相応の相場がある。相場があるなら、それなりの水準を口にしなければ、「何も分かっていないただの強欲」な者になる。

 (ちなみに、収集界には業者、コレクター含めよくいる。)

 結局断ったのだが、東京に戻ってから、その考えを改めた。

 「満州切手には額面の大きなもので、やたら希少なものがなかったか」

 製造が数百枚だか数千枚だかだが、カタログさえ持っていないので分からない。

 すぐに確かめに行こうと思ったが、東北に出掛けることが出来ず、なかなか足を向けられずにいた。切手はたぶん売れぬから、「残る」とたかを括っていたこともある。

  目安となる相場のない品について「自分なりの値を振れぬ」のは、「まったく目が利かぬ」ことと同じ意味だが、実際、切手のことは分からない。小学生の頃の「月に雁」や「写楽」「守礼門」くらいしか記憶にない。

 この悠長さが不ヅキを呼ぶ。次に十和田を訪れたのは二年後くらいだったが、店の前に行くと既に閉まっていた。ガラス戸の向こうには何も見えぬから、休業ではなく閉店したということだ。痛恨のミスだ。

 一つひとつの程度はともかく、「全揃い」には意味がある。

 流通済みの十円玉は、誰も付加価値を付けぬだろうが、「全年号揃い」なら買い手がつく。「桐一銭」とか、米国の「一セント」にしても、年号が多く、全部を揃えるのには、時間と費用が掛かる。「揃っている」ことには付加価値があるわけだ。

 

八戸の常平通寶

 前置きが長すぎたので、ここで本題に移る。

 掲示の常平通寶は、その十和田の古道具店で得た品だ。

 ありふれた朝鮮銭なのだが、輪をがりがり削っており、銭径が小さくなっている。

 最初の疑問は、「これがどこで作られた銭なのか」で、次は「何故輪を削ったのか」ということになる。

 それを確かめるために、同型類似品を並べてみた。

 まずは常平の本銭からだが、常平には製造方法が大別して二種類あるようで、いずれも「日本式砂笵製」ではないように見える(図A)。朝鮮なのだから当たり前だと思うかもしれぬが、それは分類志向の考えだ。上の方(①)はそもそも砂笵製ではない可能性がある。要は中国流の銭笵製に近く、砂の痕がほとんど見えない。下の②は粗雑な砂を使用し、地金も黄色だ。明らかに作り手が違うわけだが、私は常平のことは何も知らぬので、正確なことは分からない。

 比較してみると、当該銭は①の方で、かつ図Bで示した品に近似している。

 概ね、本銭の仲間ではないかと思うが、内輪が小さく、また地金も本邦北奥のものに似ている面はある。とりあえず「概ね本銭の磨輪銭」を見込んで先に進む。

 

 次は八戸地方の銭との比較だ。「一体、何故輪を削ったのか」は、同じ地域にある、同型の品と比較すれば理解の端緒となる。

 ①は一般流通銭の小型の銭だが、やはりこれよりもかなり小さい。なお、当品は改造母で鉄銭密鋳の際に実際に用いられた品だ。砂笵に幾度も入れると、特有の摩耗が生じるので、「実際に母銭として使用した銭」は一目で分かる。

 ちなみに、綺麗・汚い、製作が良好・劣悪の如何に関わらず、実際に母銭として使用していれば「母銭」だ。

 ②は本銭の末鋳か、八戸写しかと迷うところだが、穿に変化があるので、写しだと思う。これでもまだ常兵よりも大きい。

 ③は完全なる八戸写しで見すぼらしい。だが、これも常兵よりも大きい。

 銅銭ではまだ銭径縮小の度合いが届かぬので、鉄銭を眺めると、「広穿マ頭通」のようなミニ銭でも、この常平には及ばない。

 最後は目寛見寛座の鉄銭になるのだが、ここでようやくぴったり一致した。

 二枚を上下に重ねてみると、竿に差した時に同じサイズになる。

 

 ここで気が付く。もちろん、今のところ作業仮説ではある。

 この品は八戸領で出た品だが、「本銭を八戸領内で削った」品ではないか。

 銭径を揃えてあるので、目的は「鉄銭密鋳の母銭に充てる」ということになる。

 だが、がりがりと輪を粗雑に削っただけで、かつ面文が「常平通寶」だ。

 これをどう説明するのか。

 

 答えは割と近くにある。

 目寛見寛座で、母銭にすべく銭の改造を始めたが、面文が常平通寶であることに気付き、中途で止めた、ということではないのか。

 この先は「輪を砥石で整える」という作業が残っているわけだが、そこで文字の読める者が気が付いた。

 「おいおい。これは寛永通寶ではねえべ」

 幕末当時の農村での識字率はあまり高くない。

 穿った味方のようだが、割と良い線を呼んでいるような気がする。

 (もちろんだが、本銭の中にも八角銭を含め、何らかの意図で輪を削ったものがある。発見場所が「常平の混じる頻度が著しく低い」八戸領だったことが背景にある。)

 

 見すぼらしい常平銭一枚で、これだけ遊べる。

  だが、それも「現地に行き、他地域からの流入銭が少ないものから選んでいる」という状況があるから言えることが多い。

 趣味道楽としての古貨幣収集の神髄は「ウブ銭から知見を拾い出す」と言うことに尽きる。ここはあくまで「珍品」ではなく「知見」だ。

 珍品が欲しいなら、大手オークションに行き、大枚の金を払って買い、壁に飾ると良い。どの考え方でも、道楽は道楽。所詮は道楽でも自分なりの方法論を持つことが大切だ。

 

注記)一発書き殴りで、推敲や校正をしない。(眼疾があるため出来ない。)

 ブラインドタッチで入力したそのままと理解されたい。

 

 さて、数日中に「最終の盆回し」を開始する予定だ。懸賞付きも最後なので、ぼちぼちな品を見込んで参加すると、福が寄って来るかもしれん。この語は定価分譲か一般のネット媒体を通じて処分を進める予定となっている。