日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「資料整理の開始のお知らせと掲載拓に関する雑感」

資料01および02

◎古貨幣迷宮事件簿 「資料整理の開始のお知らせと掲載拓に関する雑感」

 収集品の大半が失われてみると、さすがにパッタリと関心が薄れる。

 残り物は、ポツポツと系統性のない単品や雑銭、紙資料などだ。

 資料庫の整理も始めているので、ウェブに処分用の常設枠を設け、興味のある人に頒布するものとした。

 整理していく過程で、つい開いて見てしまうので、そこで手が止まる。

 さすがに面白い。古貨幣の収集と整理は「人生時間やお金の1割まで」と決めていたのだが、やり残したジャンルも多い。

 資料の構成は郷土史や古貨幣など広範囲に渡っているが、古資料なので相場を知らない。付け値はかなりいい加減なので、必要な人は自分なりの基準に従って貰い、「よければどうぞ」という条件になる。ま、一部限定本や入手に手の掛かる書籍を除き、それなりの状態で、それなりの価格になる。

 

本01 「南部古泉研究会 拓泉集」(昭和49、全44頁) たぶん第一集 

 「会創立の二年後に作成した」とあるので、南部の会は昭和47年が創立年となるらしい。内容は思わず興奮してしまうほどの難獲品で溢れている。

 南部銭に興味のある者は必ず参照する必要がある。なるべく新しいものが必要であれば、南部古泉研究会に紹介すれば、新古本の在庫が残っているかもしれぬ。

 幾つか掲載品についての思い出を記す。

41 南部マ頭通 虎の尾寛

 まだ若い頃、鉄の雑銭からこの感じの品を拾ったのだが、単なる湯走りならそれまでなので、そのまま放置して、挙句の果てに紛失してしまった。

 後にこの拓を見たわけだが、母銭があったとは思いもせなんだ。思わず頭を抱えた。

 ま、木型の寛永通寶母銭より悔しさは少ない。 

43 唐銭通寶 少鋳不足

 これと同一銭の拓本が色んな銭譜に掲載されている。

 第6集の方では、この銭種が二枚に増えたが、その後、両銭は私の蔵中となった。

 K会長が病気になられた折に、私を自宅に呼び、「南部の希少貨幣を東京か大阪で売却して欲しい」という頼みごとをされたのだが、その中の数枚を示し、「これらの品はあんたが買って、さらに素性を調べて欲しい」と言われた。

 いわゆる先輩からの「下げ渡し」なので、否も応もない。もし断れば次も無くなる。

 地方貨にはあまり興味が無かったのだが、二つ返事で買い受けた。

 その後、私も持病を持つようになり、時折、立っているのがしんどいほどの状態になることが度々あった。

 体調が悪い時に、机の脇にケース入りのこの品を置いたのだが、折悪く持病を発症したので、数週間ほど病院で過ごした。家に戻ってみると、記憶が薄れており、どこに置いたかが分からなくなってしまった。なお、Kさんの唐銭は計二枚だったが、一枚は既に売却済みで、もう一枚の鋳不足の方の話となる。

 欠損ではなく「鋳不足」と断言できるのは、直接これを手に触っていたからだ。

 以来、部屋のどこを探しても見つからない。

 一度、プラケースを一個百円で収集家の皆さんに提供したことがあるが(もちろん善意)、ともすればその中に混じったかもしれぬ。

 「中身が入っているのを見付けたら声を掛けろよな」と言うつもりはない。

 時々、福を分けるように心掛ければ、いずれ自分にも返って来るものだ。

 ま、鋳不足のある唐銭は他には見当たらぬから、もしどこかでこれは見つけたら「これはあの人がうっかり百円で出した品だ」と笑える。

 この品よりも、故宮博物院の研究員から譲って貰った、清代の試鋳貨幣の方がもっと惜しい。これはそれと気付かぬうちに、雑銭の中に紛れ込ませてしまい、どこかにやった。値を付ければ、たぶん、桁がひとつ違う。

44 十福通寶 

 この品を手に入れたことはないが、東京の古銭店で雑絵銭の中に混じっているのを見掛けたことがある。「随分大きな絵銭だな。中国銭なのか?」と思ったので、記憶に残ている。同じものかどうかは分からぬが、製作はそれほど古いものではないように感じたが、そもそも掲載品とは違う銭種かもしれぬ。

 

本02 「南部古泉研究会 拓泉集第6集」(平成7、全61頁)

 この会では継続的に銭譜拓本集を製作しているが、ほとんど見かけぬ品も多く、銭拓だけでも十分に楽しめる。

 「日が昇り、日の沈むまでが南部領」という言い方があるが、古貨幣のジャンルでも、変わり物は幾らでも出て来る。その中には創作銭も混じっているし、それを東京で真似た品も存在するから、鑑定には困難を伴うが、むしろ「だから楽しい」と言える。

21 千貫通寶 

 この品には「苦労した記憶」ばかりが残る。K会長に売却を頼まれたのはよいが、東京を含め、古銭会を回っても手を出す人が殆どいなかった。

 あまりにも希少品で、存在数は数えるほどだから、「値を振れない」というのが正直なところだったのだろう。

 しかし、しばらく後に申し込みがあり、この品は関西に旅立って行った。

 ちなみに、K氏とも議論したが、古銭書に書かれていることと現物の氏素性は少し違うようだ。製作(作り方)によって、消去法で「この地方ではない」と点検していくと、どうしても古銭書の由来には合致しない。

 ま、古貨幣の氏素性は、「その品が作られた後に出来る」という皮肉めいた言葉もあるから、古銭書を鵜呑みにすると、大きな誤りを犯してしまう。

 文字テキストは、実証を積み重ねた後で改めて点検する必要がある。

27,28 唐銭通寶 

 前述の通り。最初の時から6集までの間にK氏蔵となった品が一枚増えたようだ。

 K氏は「葛巻鋳」と記しているが、製作は八戸銭に似ているところがある。

 なお、「唐銭」は密銭発覚の際の言い逃れ用の表記だろうが、八戸領では割と堂々と作っている。

141、142 一文背十

 背千もしくは、葛巻十字千を意識した品のように見えるが、私は実見したことが無い。これを雑銭から見付けた人は、さぞ腰を抜かしたことだろうと思う。

143 背長 長刮去

 青森のI氏の所蔵品とあるが、「本銭のようでもある」(文章次頁切れ)とも記されているから、地金はむしろ本銭に近いのだろう。

 背長銭は不出来で、背側が「夷漫」の状態になっている品が割と散見される。

 だが、この場合、輪も内郭も潰れ、全体が平らになっているわけだが、これを刮去銭と見るのは、輪と内郭がきちんと見えているのに、「長」字がほとんど消失していることによる。僅かに痕跡があるが、刮去銭であれば底に近い部分は幾らか残る。

 おそらく同系統の品が手元にある(前に報告済み)。

 二枚目三枚目が出る出ないとでは信憑性がまるで違う。「一枚モノ」は逆に疑いの眼をもって見られがちだ。製作を確認するためには、二十枚くらいは存在していて欲しいところだ。

148 大型隆平通寶

 この現品は、まだ私の手元にある。

 一関のAさんが南部の会長だった頃、私が副会長で、時々、会の打ち合わせをした。

 東京から岩手に向かう折には、Aさんのお宅を訪問させて貰ったのだが、その時に「こういう品があるよ」と譲ってくれた品だった。

 時々、Aさんはお酒を飲まれていて、売却品のことを忘れてしまうことがあるのだが、きちんと買わせていただいた品なので念のため。

 南部の収集の先輩の認識に従えば、正確には「釜敷隆平通寶」となる。

 さらに正確には、銅製なので鉄瓶や鉄製の釜を敷いたものではなく、「土瓶敷」と見られる。

 和同開珎や隆平など皇朝銭や、永楽通寶、開元通寶など、吉語としての意味の強い文字面が好まれたようだ。

 なお、釜敷自体は、明治以後も継続して鉄瓶屋などで作られており、割と製作の新しい品もある。もちろん、調度品と言うことで、収集家のために作られたもの(作銭)ではない。

 銭座の品なら、座内で使う実用品だが、この品のように、製作がきっちり一致する品は少ない。当品は虎銭と作り方が同じで、事実上、栗林座の調度品だと見られる。

 

 銭譜を開き、「この品はこうで」と解説を始めると、きりが無い。

 分類だけ記してあるのではなく、「この品はどこからどういう風に出たもの」といった記載があれば、検討材料になる。

 

注記)一発書き殴りで、推敲や校正をしない。様々な不首尾があると思うが、現状ではこれが限界だ。

 なお、資料については、順次、ウェブページの方で「売却リスト」に開示して行く。