◎古貨幣迷宮事件簿 十二月目録 N01-02
さて、最終処分の続行で、今週末か週明けには、各種入札に出品させようと思う。
詳細な解説は出来ぬので、予めここに書いて置く。
ちなみに、外部入札に出すのは、調査目的ではなく、単純に「売却する」ということ。
これまで古銭会内部の入札では見せて来たが、仮に応札しても落札出来なかった。
これは「見たことがある」「持っている」のであれば、当然反応すると見ていたからで、調査することが目的だった。売却が目的であれば、オークションや業者入札の方が簡単だ。
吊り上げなどが目的なのではなく、通常の手続きで自身か近辺の者が落札するので、手数料を払って自己落札した。存在数を測る手近な手段であり、他意は無い。
N01 南部大型布泉
花巻Nコインズの旧店舗は、長屋づくりのオンボロな家屋だったが、Oさんの招きで二階に上がらせて貰い、箪笥の三段目四段目の古銭を見せて貰ったことがある。
思わず息が止まった。
南部天保の初鋳銭で母銭のような品や「胆沢開珎」などの称地方貨の本物っぽい品などがざらざら入っていた。
母銭のような天保銭は実際のところ母銭で、O氏が古鏡収集に転じた時に関西のH氏のところに渡ったようだ。これはH氏が亡くなった後、市場で見掛けたので、初めて分かった。
あのオンボロな旧店舗の二階にそんな品があるとはだれも思わぬから、泥棒が二階に上がったりはしなかっただろう。なお新店舗に移ってからは、一階の品を時々盗まれたようだ。
脱線したが、たぶん、この品もその箪笥に仕舞っていた品だったろう。
もはや二十年以上前になると思うが(時期は不確か)、蕎麦の藪屋で、八戸銭の研究会を行った後、改めて店舗に寄ると、Oさんがこれを出して来た。
「これは恐らく一枚しかないが、南部銭ではないかと思う」
この場合、「ではないか」というのは「地金が古い」ということだ。普段、見慣れている南部銭の肌より古色が深く乗っている。
当時、私は中国の故宮博物院の研究員との交流を始めていたから、そもそも中国銭に興味が無かったとはいえ、古書籍を取り寄せて眺めていた。
「もしこれが南部銭ではなく中国本銭だったら」
新発見になる。このサイズのは中国の銭譜に載っていない品だ。
ちなみに、中国の銭譜をちらちら開いていたのは、少しく役に立った。ネットオークションのはしりの頃に、雑銭として出品された中国銭の中に「これは少なかった筈」と思い、何となく下値で回起きていたのだが、後にそれが百万弱に化けた。
「どちらかと言えば、中国銭である方が嬉しい気がするが、南部銭でも一枚ものだ」
そう考え、二つ返事で売って貰った。
「一枚モノ」だけに値段はした。古銭会の内部入札では、その半値くらいで見せたが反応が無い。
通常、これまで「見たことが無い」という感じの無反応ぶりだ。
背面の古色を見れば想像が付きそうなものだが、絵銭だけに収集層が薄い。やはり古銭の主流は「通貨」ということだ。
しかし、「誰も知らぬのだな」と思うと、実際は自分もそれまで知らなかったわけだが、精神的優位に立てる効果もある。
一文銭から当四銭の間のサイズの「布泉」は浄法寺銭にあるが、このサイズの品は過去に出たことが無いと思う。母銭としてのつくりではないから、あくまで銅銭だ。よって鉄銭は無い。
下値六万五千円くらいで出すが、もちろん、購入時はこの水準ではない。
これが中国銭だったらはるかに凄いことになったろうに。
N02 八戸背盛
こちらは幾度か紹介したが、これもO氏より購入した品だ。
八戸銭研究をしている時に、O氏がよほど機嫌が良かった時だったらしく、「これはどう思いますか?」とこの品を出した。
勉強している最中なので、すぐに分かり、「これは山内座ではなく八戸です」と即答出来た。O氏はさらに喜び、素晴らしい高額で私に売り渡した(苦笑)。
こんなのは一瞬で「山内(浄法寺)ではない」と分かる。
背波の方の山と谷の差が著しいのだが、そのことで、これは「鋳写しを繰り返したから銭径が縮んだものではない」と分かる。
やたら小さい割には、「一切手が加えられていない」のだ。浄法寺銭なら必ずどこかに変化がある。
八戸銭は砂が悪かったので、母銭展開(増産)に難があった。そこで母銭には粘土型を多用したが、乾燥のさせ方如何では、粘土型は縮小してしまう。
八戸銭には銭系の小さな品が沢山あるが、あれは通常銭径から一発(一度の写し)で縮んだものだ。
これは実際に粘土型の鋳造実験をして判明した。石膏は割合すぐに乾いてくれるが、粘土型は乾燥が遅い。表面だけ乾いていても中に及んでいないことがある。これを焼き固めると、型自体が縮んでしまうという欠点が生じる。
母銭がそのまま「著しく小さくなる」のは、八戸鋳銭の特質のひとつになる。
パッと見てこの品が浄法寺銭の延長に見えるようなら、南部銭はもはや失格だと思う。八戸が「まるで違う」のは目寛見寛を見れば想像がつく。
なお、目寛見寛は二戸で盛岡藩なのだが、職人は葛巻の者だったので八戸銭だ。もちろん、「南部」表記なら「盛岡」でも「八戸」でも構わない。
元々、八戸の密鋳はかなり早くから始まっているから、一文銭が主流だ。当四鉄銭が始まったので、作ってはみたが、一文銭と同じ規格ではあまり意味が無いから、不採用になったのだろう。
密かに鉄銭を探して来たが、ついぞ見つからなかった。
あれば24ミリ前後ではないか。
類品が見当たらぬようで、これも今のところ一枚モノだ。
下値は五万五千円。引き取り手がなければ、どこかに寄贈する予定になっている。
N03 仰寶三様
参考品(O氏作)を含むので、一般入札には出さず、旧雑銭の会会員限定で分ける予定の品だ。
とりわけ、ハのO氏作は地元の人が見て置く必要がある。地金や肌、仕上げなどがこれに少しで似ていたら、ほぼアウト。一時期、「浄法寺鋳」として黒っぽい絵銭が売られたが、この仲間だと思う。
「何が研究目的なのか、聞いて笑わせる」と明言して置く。
N03イ 仰寶銅鋳
南部仰寶の「銅鋳」の七割がこのつくりで、銅山手類と同じ地金、同じ鑢を使っている。何万枚かの規模で作っている筈で、銅の調達を考えると、山内座の初期に作成したものだと思う。(最初の時には鉄銭でない「何か」を作っていたようだが、よく分かっていない。)
銭座の経営について、古銭愛好家はあまり考えぬのだが、採算の取れる体制を作るのに最も基本的な条件は、「資材」と「職人の手配」になる。
ま、決め手が無いので、南部仰寶銅鋳のままでよい。
N03ロ 称浄法寺鋳 鋳放
平成鋳放の類である。
N04ハ O氏作 仰寶 未仕上げ
輪を整えているのに、湯口のみ残しているのは、珍しさを誇張する目的による。
実際、母銭が一万くらいする時に五割増しで売られた。
参考品であり。外に出すべきではないのだが、地元の人には見本として必要だと思う。
絵銭の母銭などは精巧に出来ている品があり、関東の入札誌を通じて地元の人が入手したと思う。これに似ていればほとんどアウトなので、「残念なお知らせ」になる。
地金違い母銭類があるので、注意が必要だが、「上手すぎる」=「大量に作ったものではない」ということで作為的な要素が露見する。
湯口は最初に落とす。
安価で出すと、結局、「未使用の湯口残し」として、またぞろ世に出ると思う。
研究目的だが、三枚で一万五千円が下値となる。もっともO氏作の一枚分だ。