日刊早坂ノボル新聞

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N04 古貨幣迷宮事件簿 紙包みの古銭

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N04 紙包みの古銭

N04 古貨幣迷宮事件簿 紙包みの古銭

 個々については以前紹介した。

 中の古銭よりも「包み」の方がはるかに資料価値がある。

 

 くしくも同じ明治八年に包まれたものだ。

 一分銀はいずれかの神社に奉納されたもので、「八両」とあるから、三十二枚入っていたようだ。複数枚あれば、墨書きの謎が解けただろうに、これが何の符号なのかが分からない。今のところ、通し番号で「拾(十)」ではないかと思うが、こういうのを短絡的に判断するのは、それこそ「一を見て拾を語る」ことになる。

 さて、明治八年において、お金勘定的には「八両」だったのか、あるいは「銀重量」なのか。

 既に円・銭・厘の制度に移っているが、実生活の場において、お金の感覚が切り替わるのは何年後だったのだろう。 

 

 念仏銭は北陸の尾山神社に「御調」(「みつぎ」と読む)として奉納されたものだ。

 興味深いのは、神社に対し念仏銭を奉納していること。
 慶応四(明治元)年および三年の太政官令で、「神仏分離」が布告されたが、これが国民に誤解を招き「廃仏毀釈」の動きが起こった。明治八年頃には各地で寺院が破壊されたりしており、運動が高まった時期だ。

 かたや、このように、念仏銭が神社に収められている。

 この品だけでは詳細が分からぬが、通常の「御調」でなかったことは確かだ。

 そもそも家の中には神棚も仏壇もあったろうから、それまで同様、区別なく取り扱っていたのか。

 あるいは寺を排斥せぬよう、宥める意味があったのか。

 念仏銭は、今と同じように、寺社の境内でお守りとして売られただけかと思っていたが、やはり昔は扱いが少し違っていたらしい。

 さて、「神社に念仏銭を奉納する」ことの意味は何?

 

 「もの好きはネットにいるから、ネットに出せ」と息子に指示する(3,500円)。

 古銭家はお金の使われた状況にはほとんど興味が無いようで、この手の包みを出すとすぐにバリバリと剥がそうとする(苦笑)。