◎古貨幣迷宮事件簿 「南部銭に関する質問への見解」(1)
ある方より南部銭に関する質問を受けた。「同様の質問を訊かれることがあるので、私の見解はブログに記します」と答えた。
以下はその内容になる。
ちなみに、記録を調べたり、資料を引いたりはせず、記憶のみで記すので、記憶違いはあろうかと思う。期日や名称などにも誤りがあるかもしれぬ。画像は手元に保存して置いたものを引用する。
ヒントだけ記すので、あとは自身で確認することだ。
質問1)南部中字の発祥
小字と銅山銭は栗林、大字と中字は山内という記述はよくみかけますが、中字の発祥自体は栗林座なのですか?前回のお話の中で栗林でも大字が、山内でも小字が作られたと読み取れるのですが本当なのでしょうか?また書籍により栗林座ではなく梁川座という表記がありますが、この二つは同一という認識であっていますか?
質問2)反玉寳銭について
現在では新渡戸氏の記述を根拠に室場座となっている反玉寳ですが、反玉寳にも製作の異なる2種が存在しています。
(※湯の流れが悪く地金が赤褐色で細縁から濶縁まで存在するタイプと黄色で湯の流れが比較的良好、濶縁のみで仕立て銭が少なく鋳放しが多いタイプ。製作は異なりますが共通の母型を使用したのか、仕立て、鋳放し、細縁、濶縁に関わらず背郭左延長の内輪に必ず膨らみがあり、寳字15画目の右延長の輪際に小さな鋳だまりがしばしばみられます。)
この製作の異なる反玉寳について、工期が複数あったのか、はたまた他の南部銭の様に複数の銭座で反玉寳を作っていたのか、そういったお話を何かご存じないでしょうか?
質問3)勧業場による技術変化について
勧業場について知りませんでしたので調べてみましたが、産業振興機関の事なのですね。この明治初頭と10年、30年で技術革新があったとの事ですが、鋳造技術にどの様な変化があったのでしょうか?
古銭の鑑識を行う上で役に立ちそうですので非常に興味があります。
回答 その1 「まずは基本的な流れを知る」ことが肝要
「急がば回れ」ということで、遠回りしてから見解を述べる。
■南部貨幣の見解は、とどのつまり、『岩手に於ける鋳銭』に始まり、『岩手に於ける鋳銭』に終わる。
総ての情報の根源は、この著作から始まっているのだから、まずはこの著作の検討から始めることになる。
ただし、資料リポートを読解するにあたっては、そのリポートがどのように書かれたかを知ることが必要になる。歴史に関したものであれば、情報源を何処に求めたのか。どのように検証を行って、それが言えると考えたのかを確認する必要がある。
だが、ここで「不都合な真実」に突き当たる。
それは、古銭収集界で、『岩手に於ける鋳銭』のとりわけ昭和九年完成稿を読んだ者がこれまで数人しかいないことだ。このことは十年くらい前に気付いたのだが、それまで出会った収集家の誰一人として目を通していない。
その意味で、「まずは原典にあたる」姿勢が損なわれていると言わざるを得ない。
そうなると、その原典の成り立ちについては、もはや何をかいわんや、ということになる。
新渡戸仙岳は、『岩手に於ける鋳銭』以前に数多くの草稿を残している。
メモ書きだったり、下書きだったりと様々だが、これらに目を通して見ると、『岩手に於ける─』と共通の内容の個所が数多く見られる。
新渡戸の情報収集手法は、1)古文書の収集と解読、2)直接の当事者からの聴取、3)口碑および風説(当事者の言ではない、の意)によっている。
これらを区別なく収集した上で、検証が可能で、実際にそれが出来た草稿を選別して『岩手に於ける鋳銭』にまとめている。
すなわち、様々な情報源から、より確からしいものを抽出して集大成したのが『岩手に於ける─』ということだ。
実際に『銭貨雑抄』などの原稿を見ると、多くメモ書きであり手控えだ。
自分用であるから、自分一人が分かればよく。他者が読むことへの配慮がなされていない。
私は長い間、「これをどうやって読もうか」と頭を悩ませたが、答えは簡単だった。
「無理をして図べ手を読もうとする必要はない。何故なら、新渡戸自身が不採用としている」
簗川では「ごく小規模に行われた私鋳」の話で、口碑しか存在しない。
室場の当百錢鋳造も、古文書はもとより物証など何も無かった。人から「これこれこういうことがあったらしい」と言う話を聞き、その人の周辺からそれらしき貨幣を貰った。こういうあやふやな論拠なので『岩手に於ける鋳銭』には、室場に記述は無い。
室場では、現実には当百錢を作った形跡が無いから不採用としたわけだ。
(何故そう言えるのかは後述する。)
私の郷里の倉庫に入っており、内容を確認出来ぬ資料もあるが、新渡戸のリポートは多く教育会長や女学校長であった時期に書かれたものである。これはセキレイ(原稿用紙)に「岩手県教育会」の文字があることで断言できる。
となると、明治三十年台の著作または草稿については、「そもそも確定稿ではない」のだから、参考になりはすれ、有難がって拝むほどのこともない。
ちなみに、新渡戸はもちろん、古銭を摸鋳していたりしない。
古銭の鋳造に関わった時期は、勧業簿との直接的なかかわりがあった時の話で、明治三十年に教育長であった時のことだ。勧業場で鋳造法の研究開発が行われたのは、明治三十年だけのことだから、「明治三十年」と確定できる。
のちに「南部史談会」に、勧業場の担当であった宮福蔵、砂子澤何某が参席しているところを見ると、両名が県職員として勧業場で勤務していた時に知り合ったのだろう。
勧業場では、鉄瓶職人やそれに関与していた元鋳銭職人を招き、場内で鉄瓶を作らせたりしている。
この現品である「勧業場製」と銘打たれた鉄瓶は今でも目にすることが出来るが、総て明治三十年のものである。
勧業場は殖産興業を目的とする機関で、展示会を催し、県の産品を販売する窓口になる一方で、紡織や鋳造など産業技術の開発に関わる研究事業や、紡織工の教育・育成なども行っていた。
その時に、新渡戸は「鋳銭製造の事情」について聴取し、古文書の記述と併せて、具体的な鋳造工程についてを『岩手に於ける鋳銭』に記述した。
しかし、もちろん、鋳銭の工法についてはよく分からぬから、独特な表現を用いた箇所がある。
自身で鋳銭を行うなど、はるか遠い話だ。
そもそも今で言えば、県の教育委員会長が「在職時に古銭の贋造を行った」と考えること自体がナンセンスな話だ。
ところが、古銭そのものと古銭収集界についてよく知らなかったことが新渡戸にとっては災いした。
昭和十六年から十八年の間に新渡戸は息子を亡くしたが、この後、生活に著しく困窮することになる。
戦時中で、時代がら年金などは無く、文化人であるから田畑も持たぬ。
終戦間際に、仕方なく売れるものを売ることにして、かつて貰い受けてあった盛岡銅山銭二期陶笵銭を思い出し、これを水原庄太郎を通じて売却しようとした。
このことについては、新渡戸自身が「古銭を売らせた」と森荘已池に語ったことが『仙岳随談』に残っている。
(ちなみに、終戦末期であり、食うものにも困ったのは、新渡戸だけではない。私の父や叔父らも「餓死するところだった」と語っている。)
この時、新渡戸が銅山銭を渡そうとしたのは、水原正太郎だった。何故なら、過去に水原は東京に二期錢を持参して、売却したことがあったからだ。この時の記録が旧『貨幣』誌に残っており、「煙草坊(水原の泉号)」の記名がある。またこれは昭和十六年よりも前の大正年間の話になる。
水原の『南部貨幣史』には、あたかも「新渡戸が作った」と匂わせる記述がある。
「銅山銭の贋作などはしていないと信じる」(表現は不確か)というもので、あたかも否定しているようだが、実際にはそれを暗示する表現だ。
だが、大正年間に東京に銅山銭二期錢を持参して売却したのは水原氏自身であるから、氏素性については承知していたことになる。自身の先生に不名誉を押し付けた、ということだ。
地元の収集家でも、「大正三年頃に新渡戸が銅山銭を作ったのではないか」と書いたりしているから、本当にあきれる。この根拠は、前述の森荘已池による『仙岳随談』しかない。
戦争中は「食うに困った」という新渡戸の自嘲の言葉が根拠らしい。
「囲炉裏で焼きを入れているところを見た」という言質もあるが、終戦末期の事情なら「食うに困った」ということ。明治時代に「作った」ことの証拠にはならない。
「県の上級官僚」が「在職時に古銭を贋造した」と信じられる人は何時までも信じているとよい。
ああ馬鹿らしい。
手の上の古銭ばかり見て憶測をし、原典を目を通すことをせず、自分に都合の良い結果だけを求めるからそうなる。目を通すのは、分かりよい「引き写し」だけ。
明治時代に鋳造貨幣の製造法を承知し、実際に作れたのは、勧業場の宮福蔵の周辺だけで、宮福蔵が現実に東京方面に南部の希少貨幣を売却している。
下点盛は、最初に見付かったのが大迫だが、これが宮福蔵の蔵中に入った後は、ルーツの分かり得る品が悉く宮福蔵に行き着く。
事実上、この時代に古銭を鋳造出来たのは、鋳銭職人から直接指導を受けた宮福蔵の周辺しかない。
私自身、粘土型の研究のために実際に古銭の鋳造を試みたが、とても短期間で出来る代物ではなかった。かたちにするには、それ相応の修練がいる。
さて悪態に近くなったので、まずはここまで。以下、可能な限り続報の予定。
注記)いつも通り、記憶だけを頼りに一発殴り書きで書いている。推敲も校正もしないので不首尾は当然あると思う。そこは自身で推測するか調べることだ。
追記)『岩手に於ける鋳銭』昭和九年稿については、複写を南部古銭研究会に送付してある。写本間の比較照合をするなら、会長に照会した上で、例会に出席し、一二時間借り受けて、複写を取らせて貰えばよい。旅行が自由になり、GOTO補助が出るようなら、遊びがてら訪問すると楽しめると思う。花巻温泉には古くからの旅館が幾つもある。