◎「背盛字銭の新研究」を読む (その1) 暴々鶏
研究の基本的姿勢のひとつは「原典に当たる」というものだ。
明治期半ば以降、「南部史談会」が岩手県の郷土史研究の拠点になっており、議事録を『南部史談会誌』にまとめているので、これを一つひとつ読解して行くことにする。パラグラフごとに順次、解釈を加える。かなり長期に渡る見込みなので、途中で継続不能になる場合があるが、以後は自身で読むこと。この資料は南部貨幣の手引書だ。なお、眼疾で文字がよく見えぬので、読み取りに過誤がある。まずは自身で原典に当たることが肝要だ。
◆小田嶋古湶(禄郎):執筆者
記録をまとめた小田嶋古湶(禄郎)は浄法寺村(現二戸市)のいわゆる「旦那さま」の地主の家に生まれ育ち、主に先史時代の発掘研究のジャンルにおいて、岩手県に郷土史研究の礎を築いた。
古貨幣を趣味のひとつとしたのは、元々、身近なところに南部貨幣が沢山あった、ということ。
◆暴々鶏(報告者) 最近、ウェブを通じて複数の中国人と交流しているが、自動翻訳で中国語に変換した通信文を中国語に直し、さらに日本語に再変換すると、「荒々しい鳥」で「野鶏」、すなわち「雉」になるようだ。発音は「バンバンジー」「ぼ-ぼーどり」のいずれでも可。
◆「背盛字銭の新研究」
『南部史談会誌』の第十五号(昭和十年四月)に掲載された議事録で、盛岡藩における背盛字銭について、様々な角度から議論を展開したもの。
参加メンバーは、新渡戸仙岳、小田嶋古湶、小笠原白雲居その他。
第一文節 解説 前書き 十五号495頁-(1) ※朱字記番号は暴々鶏による。
南部史談会の綱領として、次の三つを掲げる。
「研究は相互に尊重すること」
「自己の発表には進んで批評を求めること」
「盛んに質疑応答すること」
当たり前のことだが、あえてこれを提示するのは、古湶が記す通り「南部人気質」がこの地には蔓延しているとの認識があったからだ。
いわゆる「南部人」の特徴として挙げられるのは、「天下国家を論じるのを好む」がひとつ目だ。
その一方で、「偏狭で他者の意見を受け入れない」「他所者に席を与えない」とも言われる。
とりわけ、「心中(本心)をあまり語らない」性向があり、ひと言で言えば偏屈な「もの言わぬ民」である。
これでは、研究の健全な発展など望むべくも無いから、「まずは正々堂々と議論して互いに研鑽しましょう」と古湶は述べた。
以下は本文ママ(引用)。表記(字句)は現代の書き方に切り替えた。
◆「大迫銭座」 十五号495頁-(2)
慶応二年、幕府の公許を得て、大迫に藩座を開き、主として鉄の当四銭を鋳造したことは、広く大迫銭の名と共に知られているが、直接許可運動の任に当たった砂子田源六は、幕府から鋳銭器具の見本や母銭数種の貸し下しを得て帰り、直ちに藩内持て余しの鉄の消化に努むべく、銭座の解設に着手したが、まず最初鋳造したものは、この借用母銭の系統にあったことは勿論で、これについては本誌第七号に小笠原吉亮氏が当時の職工、和太郎の証言及び同人が銭座から持ち帰った種銭につき、通常、山形無背と称せらるるものは、前期鋳造銭種の一なるべきを述べられているが、かく精確な証拠資料によりて、歩一歩不明な強度鋳銭史を解明して行くことは、学界の幸慶とするところであり、感謝すべきところである。しかし最初に鋳造されたものは単にこの一種に留まらず、なお数種あったはずであるが、いまだ残部の研究が徹底していないのは遺憾である。
よくよく研究を発表するに当たっては、まさに小笠原氏のごとく信じ得べき証拠の上に立脚して論断すべきで、単に己の推測及び古老曰くくらいで述べ立てても、他人を首肯せしむるに不充分であることは言うまでもない。
さればかく言う吾輩地震に於いては、特にこの点に留意せぬはならぬのであるが、しかし新発見と信じるものや、研究上好資料と思惟せらるるものはどしどし発表して広く紹介することは、やがて研究を促進せしむる所以で、資料を死蔵する勝ることは勿論である。この意味において、新種の発見を機とし、卑見を開陳して垂教を仰がんとするものである。 (引用ここまで)
暴々鶏 解説
その1)「慶応二年」、公許を得て
鋳銭に関する資料を見ると、どの資料にも「慶応二年に盛岡藩が大迫に銭座を開いた」ことが記してある。この根拠は、総て新渡戸仙岳による『岩手に於ける鋳銭』の記述によるもので、仙岳が収集した藩公文書が出典となっている。この他に資料的根拠はない。
まず原典を掲示する。なお掲示のものは、新渡戸仙岳直筆の昭和九年完成稿を、小笠原白雲居が写したもの(写本)が起源となっている。この後、この白雲居写本を複数の者が写しているが、その時点で変化が生じており、複数の写本があるようだ。内容にも幾らか相違がある。







幾つか重要なポイントがあるが、
1)日本で最初の高炉が大橋に建設されたが、引き続き橋野などにも作られ、そこで作られた高炉鉄(銑鉄)の販路は石巻銭座だった。
2)石巻銭座との契約が切れ、鉄の新たな販路を開拓する必要が生じた。
3)このため、盛岡藩は幕府に鋳銭許可願いを提出した。
といったことが背景にある。
その2)最初鋳造したものは、この借用母銭の系統にあった
現在では、盛岡藩の鋳造貨幣のうち、当四銭の銭種として知られるものが、「背山」・「仰寶(山無背)」、「背盛」・「盛無背」、「マ頭通」などがある。なお、「仰寶大字」「広穿」は栗林銭座の固有銭種であると見なされるため、ここでは省く。
この場合、「幕府から借用した母銭」とは、一体どれを指すのか。
文字書体の系統で言えば、
A)「背山」「仰寶(山無背)」:面文が称「水戸仰寶」に酷似したもの、
B)「背盛」「盛無背」「マ頭通」:面文が「深川俯永」に範を取ったと思しきもの、
と見なされる。
通常、「山無背」とは、「背山字銭の山を取り去ったもの」として、今で言う「仰寶」を指すものと見なされる。
その3) 通常、山形無背と称せらるるものは、前期鋳造銭種の一なるべき
(前項に引き続き)、大迫銭から職人が持ち帰った種銭は、通常、「山形無背」と称せられるもの、とある。本来、「山形」があるべきものでこれが無いというが、「山形」とは一般に「ヘ」に近い文字通りの山のかたちを示す記号になるのだが、このような背面意匠は存在しないから、「『山』がないもの」ということであろう。すなわち、ここで言う「山形無背」は「背山無背」のこと、すなわち今で言う「仰寶」と見なされる。
この点に関する疑問は、「幕府から貸し与えられた種銭」ということについてである。
幕府が貸与するのであれば、幕府公営銭座の銭種であるべきで、例えば、深川(亀井戸)銭とされる「俯永」「小字」などの銭種が充てられる筈だ。仮に「仰寶」であれば、深川銭ではなく、水戸藩小梅藩邸由来ではないかと思われるが、これでは辻褄が合わない。
一方、書体系列のB「背盛」系統は、書体が深川俯永に近似しており、模写が基盤になっていると思われる。どちらかと言えば、こちらの方が「幕府より貸与された」という記述に合っている。
ただ、議事録を筆写する際に、「盛字無背」を「山字無背」と誤記した可能性はある。このため、「山形無背」という見慣れぬ表記になったのかもしれぬ。
これはここだけの文脈では分からぬので、保留して先に進む。
その4) 最初に鋳造されたものは単にこの一種に留まらず、なお数種あった
これは現在の認識と同じで、大迫開座当初から、複数の種銭を使用していた。
そもそも、鋳銭は「領内通用」が建前としてあったから、「盛岡藩」を示す「盛」字や、「尾去沢」を示す「山」を裏面に配置したが、全国通用する貨幣でなくては、鋳銭の意味が限定される。
そこで、表向きは領内限定の「背山字銭」や「背盛字銭」を作る一方で、藩堺を越えて流通可能な無背銭を製造した。
(以下、順次継続する)
注記1)眼疾があり、推敲や校正が出来ず総てブラインドタッチで行っている。必ず表記に不首尾があります。気になるなら読まぬこと。
注記2)資料はPC内に残っていてものを使用しているが、『岩手に於ける鋳銭』に関して全頁のデータはない。コピ-出力したものがある筈だが、おそらく郷里の倉庫に入ったままだ。あるもので進める。
『南部史談会誌』は古本屋を丹念に当たれば、入手可能と思う。まずはこれを精読することから、南部銭収集が始まる。戦後に貨幣収集家が記したものは、あまり信用せぬこと。『岩手に於ける鋳銭』をきちんと読んだ者はごく数人に留まり、大半がほぼ憶測で書かれている。
なお、これには、収集家にとっては「残念なお知らせ」を幾つか含んでいる。
注記3)戦後の寛永銭譜には、盛岡藩鋳銭当四銭として「異書」が掲げられることがあるが、地元収集界で戦前に於いてこの存在を示すものはない。盛岡藩正銭と認識されたことはない(この項暴々鶏)。簡単に言えば、「存在して居ない」。