日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「本15 南部史談会誌」の史料紹介

◎古貨幣迷宮事件簿 「本15 南部史談会誌」の史料紹介

 盛岡・八戸の両南部藩郷土史全般、あるいは鋳造貨幣に関連する資料のうち、「バイブル」に近いのが、この『南部史談会誌』だ。あるいは、古貨幣に限定するのであれば『岩手に於ける鋳銭』(とりわけ昭和九年稿)などと同じ位置づけになる。

 古銭家はコツコツ資料調べをするのが嫌いなようで、後者の確定稿(昭和九年稿)などは地元以外に読んだ人が殆どいない。目を通していても、概ねダイジェストであったり中途原稿だ。
 何事も基本は「原典にあたる」ことが大切なのだが、多くの者は誰か他の人が簡単に記した誤謬を含むテキストの方を好む。

 

 「南部史談会」は明治後半から昭和戦前にかけて、盛岡で活動を展開した郷土史の研究会だ。メンバーには新渡戸仙岳や小田島祿郎、小笠原吉亮ら錚々たるメンバーの顔触れが並んでいる。新渡戸は盛岡藩の公文書・私文書を収集・整理し体系的に整序化した。小田島は陸奥の縄文・弥生時代の遺跡発掘に心血を注いだ。小笠原は書家・画家である。要するに地方史研究の拠点だった、ということだが、その一環で鋳造貨幣についても関心を持っていた者が少なくない。

 

 明治三十年には、岩手勧業場(のちの工業試験場)にて、産業開発・振興の一環として、南部鉄瓶や高炉職人、かつての銭座職人を招き鋳造技術の研究が行われた。

 この時に試験製作した鉄瓶や、鋳造貨幣のサンプルが残っており、そこでどのような技術を検討しようとしたのかを確かめることが出来る。

 皮肉なことに、古貨幣収集家はそのサンプルを「偽物」と見なす。普通は「研究の成果」と考えるわけだが、古銭家は「手の上の銭」にしか興味を持たぬ人種なので、微視的な世界観で生きている(皮肉だ)。

 なお、鉄瓶にせよ貨幣にせよ、幕末明治初めに実際に従事していた職人を招聘して、教えを受けている。明治三十年の作品に銭座製と寸分違わぬ品があるのは当たり前だ。

 

 さて、『南部史談会誌』は、この会合で取り上げられたリポートや議論の内容を取り纏めたものだ。定期的に冊子を発行していたものを、戦後、改めて二冊にまとめたものがこの資料になる。

 古貨幣のジャンルに引き寄せれば、最も有名なのは「背盛字銭の新研究」(小田島)だろう。盛岡藩寛永当四鉄銭である「背盛」銭とそのうちの一銭種である「下点盛」についての検討内容が記されている。

 議事録だけに、討議の経過を記してあるから、テキスト的な内容ではない。読みこなすには骨が折れる。だが、じっくりと読み整理すると事実関係がよく分かる。

 「下点盛」については、「最初に発見されたのは大迫」で一枚だけだ。これは県勧業場担当職員の宮福蔵の蔵に入っている。その後、出所不明の銅銭が発見されるが、いずれも宮福蔵の所有だ。当初から複製の存在が言われており、これが鑑定出来るのは宮だけだった。東京にも下点盛が渡っているが、本物は宮が渡したもので、複製品はそれを模したもの。要するに、下点盛の由来を遡及すると、必ず宮福蔵に辿り着く。

 書物の記述だけでは証拠にならぬので、実際に残っていた当該銭の経緯や由来について調べてみると、面白い事実が分かる。地元では宮以外に、雑銭から下点盛を選り出した者が見当たらないということだ。東京では出ているが、流通により渡ったものではない。いずれも未使用貨になっている。母型は宮のものだろう。

 ま、ここでの銭影を見れば、何が起きたかは容易に想像出来る。

 

 さて、「高名な収集家がこう書いてある」のを鵜呑みにするだけでなく、「実際の存在状況と照合する」というのは大切な姿勢だ。

 この「背盛字銭の新研究」の中に「銀なのか白銅なのか鉄なのか、素材のよく分からぬ背盛」が出て来るのだが、これに該当する銭にすれ違ったことがある。

 某収集大家が急逝し、そのコレクションが市場に流れた時のことだ。

 都内Oコインを訪れると、店主の小母さんが「さっき鏡のような鉄銭を見た」と言う。コインの仲介をしていたSさんが持って来た、とのこと。

 鉄がキラキラと輝く素材ということは、要は「玉鋼(たまはがね)」と言う鉄の種類になるようだ。「浄法寺銭」という触れ込みだったが、なるほど、玉鋼であればたたら製鉄の産物だ。高炉では出来ない。

 南部史研究の重鎮たちが首を捻った「真っ白に光り輝く鉄銭」の現物がそこにあったわけだ。ほんの十五分も前に店を訪れると、それが見られたのに、前を通り過ぎてしまった。

 その当時は知らなかったが、後にこの資料を読んで「あれがこれだ」と思い当たった。それと表向きには記されていない蔭の歴史にも行き当たった。

 幕府の許可を貰う以前に、貨幣サンプルを試験的に製造していたのは、浄法寺山内だった、ということだ。実際、大迫銭座の開座の前に、山内では鋳銭を始めている。

 どういう銭種だったかは定かではないが、もちろん、その時点では背盛や仰寶などといった銭種ではなかったことは確かだ。

 これは推論だが、既に銭座の下地があったので、そこでサンプルを作らせた。

 玉鋼の鉄銭は関西のH氏の蔵中に入った筈だ。あれはその後どうなったのか。

 この資料を読んでいれば、それが「銀のような背盛鉄銭」と符合すると分かる筈だが、この後は単に「浄法寺(山内)のきれいな鉄銭」とのみ伝えられるのかもしれん。

 時代が下ると、研究が進むどころか、後退してゆく面もある。

 

 この資料は発行部数が少なかったのか、当初は古書店を幾ら回っても入手できなかった。

 ある時、たまたま盛岡の古本屋(上の橋際)を訪れると、ちょうどこれが入ったところだった。持ち主の代が替わると、いくらかは世に出るようだ。

 難獲資料のひとつなので、数日で無くなる。プレミアムがついているが、私が入手した時もそうだった。

 最後は苦言だが、こと南部銭については、基本的な認識は明治末から大正年間には確立されている。その後、とりわけ古貨幣収集界で伝播された内容は、読むに堪えぬ代物だ。誰かの見解を鵜呑みにするのではなく、「原典にあたる」姿勢を怠ると大恥を掻く。

 注記)例によって、推敲・校正をしないので、誤変換や誤記があると思う。そこは了解いただく。