◎「背盛字銭の新研究」を読む (その2) 暴々鶏
引き続き、原典を読み、一つひとつについて見解を述べる。
◆「大迫銭座」 (続2) 十五号496頁(3)~497頁(4)
(以下原文)
まず発表前に、銭座解説前の状況を今少し述べておきたい。
これは再前提として必要だからである。
借用母銭は小笠原氏論文中にもあるように、地方所鋳と見られた山無背さえ、実は深川大工町の銭座で鋳られた数種の系統と見らるる如く、事実幕府では公鋳の母銭を貸与したろうから、不明な数種もいずれはそれらの中であったことは想像に難くない。
さて大迫でこれらの母銭から多数の種銭を作り、鋳造を開始していると、間もなく幕府から銭背に盛字を記すべき命令に接した。そこで藩お抱えの彫工月舘八百八に命じ、新たに母銭を作らせたことは従来説明されているところである。
だが、融通の利かぬ盛字銭のみを作るほど愚直ではなかったらしい。これは鉄子銭の大部分が盛字銭ではないことでも想像されるのである。ただ公儀の手前、幾部の鋳造を必要とするから、新母銭の出現となったろうが、これも月舘の彫母が出来上がるまで鋳造を控えていたわけでもあるまい。歴史は簡単な事柄のようでも、単純に解釈されぬことはある。
周通元寶宋通元寶のように、一字をはめ込むくらいの機転は当時の人にも出来得るはずで、まず手っ取り早く造り出されたものは、この種の銭であらねばならぬ。
その新資料として、余は次の一種を提供する。 (引用ここまで。朱字は本文で〇〇:強調印が付与されたもの)
◆暴々鶏 解説
その1)地方所鋳と見られた山無背 以下の件
ここでの「地方所鋳」は「幕府公鋳」と対語として使用されているようで、この場合は「盛岡藩の独自創作銭と見られる仰寶(山無背)でも、深川大工町で鋳造された銭種のひとつ」であると見ている。
現在では「仰寶」は幕府公鋳の銭種ではないと認識されているが、小田嶋は「公に持ち帰った母銭」として、「盛岡藩」と「江戸」を対置させ、大雑把に括ったのではあるまいか。
その2)幕府では公鋳の母銭を貸与した
幕府より鉄銭の鋳造を許可されたので、「母銭」は見本を与えられて持ち帰った。このため、初期において盛岡藩が採用した銭種は、幕府公営銭座の母銭に倣って作られたものだろうと推測出来る。
なお、小田嶋は「母銭」と「種銭」を区別して使用しているが、話の流れから見て、「母銭」は「原母銭」を指し、「種銭」は実際に銭の型を採る際に用いた母銭、すなわち「汎用母銭」を指すと思われる。
よって数量(枚数)で見れば、「母銭」は一枚ないし数枚、「種銭」は数千枚程度存在することになる。
その3)幕府から銭背に盛字を記すべき命令
慶応二年の鋳銭許可の痕、大迫で鋳銭を開始していたが、幕府から「背面に盛字を記すこと」という命令を受けた。鋳銭を申請する時に「領内通用」を旨としていたので、原則に従えばこうなる。具体的な資料的根拠(公的文書)がある筈だが、これは追って確認する。
これまでにも様々な議論が展開されて来たことが窺われるが、実際、南部史談会の活動は明治後半には盛んに行われていたようだ。
ここでのひとつの疑問は、「背盛」が作られるのは、「大迫開座以後のこと」だという点だ。
では、それ以前は「山無背(仰寶)」だけなのか。
この辺については、当時の史談会でも「手探り」で調べているようだ。
その4) 鉄子銭の大部分が盛字銭ではない
通用鉄銭の多くが盛字銭ではないということを指し、今の使い方の「大半が」という意味ではない。
実際に鉄銭の状況を見ると、仰寶系統の鉄銭が六七割で、背盛系統は三四割程度であろうか。
ぞの5) 公儀の手前、幾部の鋳造を必要とするから、新母銭の出現となった
その6) 一字をはめ込む
大迫銭座で展開された対策を、同時進行的に推察した部分である。幕府による「背盛字を配すべし」という命令を受けて、それに対応する新しい母銭を作った。これが「背盛字銭」となる。
原母は月舘八百八が彫金したが、ゼロから作ったのではなく。元々あったものに「盛」字を嵌入したのだろうという見立てとなっている。
要は、「先に背盛字銭を作り、この後で盛字を取り去った」のではなく、「先に無背銭(盛字無背)を作り始めていたが、これに後から盛字を入れた」のではないか。
原型は無背銭だが、要請に応じ、背盛字銭を作成した、という流れになる。。
古貨幣収集家は、何となく「背盛字銭の盛を取り去ったもの」が「盛字無背」であると考えがちなのだが、そうではなく、元々、無背銭を想定していたところに、幕府命令を受けて、盛字を入れた。
ただ、現実には盛無背の通用鉄銭は極めて少ないから、当初の主力が「山無背(仰寶」の方で、「盛字無背」は稟議段階にあったものではないかと推察出来る。
あるいは、やはり幕府要請の後に、「盛字無背」と「背盛字」の両方を作った、という流れである場合もありそうだ。
その7)次の一種
497頁に系図があるが、文章の流れから見て、これが「次の一種」、すなわち、「大迫開座五、早い段階で、背に盛字を嵌入した」ケースの一例ということになる。
これが小田嶋リポートに関する大問題のひとつ目だ。
ここでの問題は、この掲図の銭影が「小さ過ぎる」という点だ。
参考までに、江戸深川銭の一般的な銅銭を並べると、掲図の銭は一段も二段も小さい。
これまでの文脈から、大迫銭座を開いた直後に作られた銭型がテーマになっているから、これは本来、「鉄銭の母型」すなわち母銭であることが大前提である。
通用鉄銭の中には、母銭の鋳写しを繰り返した結果、銭径が縮小した実例があるわけだが、これは初期段階のものとされる。
これは何故か。
このことについては、小田嶋リポートの流れから外れるが、次回に別途吟味する。
注記)視力は改善されつつあるが、道楽に費やす時間はないので、これまで通り、一発殴り書き・推敲なし・校正なしで進める。よって表記に不首尾は生じるが、あくまで日々の雑感として書いている。詳細は「自身で原典をあたること」。