日刊早坂ノボル新聞

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◎「背盛字銭の新研究」を読む (その8)  暴々鶏

◎「背盛字銭の新研究」を読む (その8)  暴々鶏

 繰返しになるが、前回に於いて、「宮福蔵の関与した品を銭籍から排除すべき」だと記したが、これは「新研究」の(二)以降の品は、ほぼ「宮福蔵旧蔵品」か、「それから派生(写)したものである」ことによる。

 この場合、「ほぼ」と言うのは、「どのようなルートで入手したのかが分からない品がある」という意味だ。

 現存数十枚の品の出所が、歴史研究者でも収集家でもない「たった一人」から出ている。

 戊辰戦争の時に官軍が金座を襲撃した際に、そこにあった天保母銭を徴発し、そのまま戦費に充てたが、それと同様に製造所をまるごと押さえぬ限り不可能な話だ。

 また、この銭種を「選り出した」という記録は、(一)のように「鉄銭の間から出た」という一例しか確認出来ない。あとは骨董業者から買い入れた品なので、発見場所はあてにはならない。

 

 ちなみに、盛岡藩には「背山」という希少銭種があるが、これは鉄銭の間から時々発見される。これは「それなりの数を作った」のではなく、戦前戦後に地元の収集家が鉄雑銭に摸鋳品を放り込んだことによる。

 出て来るのは、もちろん、参考品で、この行為の理由は「鉄のクズ銭を売却するため」だ。母銭ならともかく、鉄銭を丹念に調べる者はほとんどいない。しかし、その中に「希少銭種が入っている」となれば話は別だ。

 買い手がつくようにと放り込んだわけだが、このことを知る者は、「背山が雑銭から出た」としても驚かない。希少銭種で、現在よりはるかに多量の枚数を検分しても見付けられなかった品が、戦後は時々発見される。何年か前に、東京のコイン店を数軒回ったら、どの店にも背山鉄銭が置いてあったことがある。

 こういう素性の品でも、オークションに安めの下値で出せば買い手はつく。収集家は銭譜しか目を通さぬので、こういう背景的事情を知らぬためだ。

 

 さて、本編に戻ると、「新研究」の(二)は(三)以降とは幾らか型が違うようだが、小田嶋によれば、この変化は「鋳浚い」による変化だという。彫母から原母、汎用母と枚数を増やす過程に於いて、せいぜい数十枚しか作成しないのに「鋳浚い」加工が必要だと言うのは、よほど鋳造技術が劣っていたことを意味する。

 母銭を何千枚と作る工程で、「よさげな品を母銭に修正する」ことは起きただろうが、この品の場合は数十枚である。原母にあたる段階でこれはない。

 ただ、小田嶋は元々、史学の研究者であり、「確からしさ」を求める。このため、一つひとつの反論的事実を潰して行こうと考えたようだ。

 

◆「大迫銭座」 (続7)        十五号502頁(16)~503頁(18)

 鋳造銭座についても研究の余地は残っている。(一)は最古の背盛字銭と信ぜらるから、之を大迫とすることに誤りが無かろうが、(二)に至っては軽々しく断言は困難である。それは新渡戸氏談に、砂子田源六が栗林に分座を設けた時、新たに月館を煩わして盛字異書の母銭を素銅で造ったという問題で、これは源六の長男(当時十三四歳)の直話であるだけ傾聴すべきであり、その遺族が一点一画まで記憶が正確であったとせば(二)の原母は正に素銅であり、而して鋳造地は栗林ということになるが、余は今に其の類品が同地方から出た事実を聞かない。寧ろ大迫や紫波郡徳田村から出て来たのに疑問を起すもので、水原氏談の在京品十点の発見地調は銭座考定上、必要な条件となる訳だが、宮氏の徳田村、平尾氏の岩谷堂を聞いた以外は知りかねている。おそらくその多くが骨董商の手を経ていると思われるから、出た地点などは的にならぬものかもしれない。その上、泉貨の如きは最も移動性に富むもので、盛岡銅山の原母が現に朝鮮にあるが如き意表外の事実もあるから、数十年後の今日、単に分布の状態から速断はされぬが、考定上の参考とするには充分である。この意味からも広く探究する必要があると思う。

 以上新紹介に加え関係事項の大要を述べて研究の余地多々あることを論じたが、今回の新提供によりて所謂背盛字銭異書に二種ある事実は明らかになり、又借用母銭に正確な一種を数え得べきことになった訳であるが、而も前者は背盛字銭として最古のものであり、後者はその形態の小と類品の極めて僅少なるより見て銭座末期に属すべきものであることは明らかで、等しく盛字異書の部類に入るべきも、その時代と特徴に著しき相違があるから之を二つに分類し置くべきものである。

 最後にこの銭の名称について一言したい。先に盛字銭中極めて少数の異書あるを発見したのは実は水原氏で、新渡戸氏は之に降点盛字の名を附されたが、之の名称はその特徴を如実に示す良い名であるが、一般には盛岡背盛字異書と称さるる様になった。然しこの名称も背盛字銭と所謂異書とが各一種だけに限られた場合には適当な名であるが、両者とも各数種あることになってくると、結局このままでは要領を得ぬことになるし、又一方盛字銭の名称も正異全部を含む名称で不適当であるから、これを正異に二大別した上更にその時代や特徴によりて貨泉そのものを推知し得る様な命名が必要である。この意味から降点盛字はむしろ適当な名ではあるが、余は仮に(一)を盛岡藩鋳造貨幣盛字異書俯永とし(2)を同肥字と命名して置く。

 

◆暴々鶏 解説

その1)(一)は最古の背盛字銭と信ぜらるから、之を大迫とすることに誤りが無かろう

 盛岡藩の公許銭座は、大迫であるから、幕府より指定された「背に盛を嵌入した」型を作成したのは、この大迫になる。ただ、(二)以下の方は著しく製作が異なることから、「同じ銭座で作った品ではない」のではと小田嶋は考えていた。

 

その2)新渡戸氏談に、砂子田源六が栗林に分座を設けた時、新たに月館を煩わして盛字異書の母銭を素銅で造ったという問題で、これは源六の長男(当時十三四歳)の直話であるだけ傾聴すべき

 新渡戸仙岳の調査手法は、「藩公文書の収集」と「当事者に対する聴取」を基本としている。

 砂子田源六の長男(まだ少年)が「栗林に分座を設けた時、新たに月館を煩わして盛字異書の母銭を素銅で造った」と語った。

 この言に従えば、「二)の原母は正に素銅であり、而して鋳造地は栗林」ということになるが、これは実情に合わない。慶応二年に大迫銭座を開いたが、栗林に分座が出来るのは慶応三年になるから、既に背盛正字は完成しており、必要がない。

 証言が子どもだったことから、記憶に整合性が欠けるケースが考えられる。

 ただし、栗林銭座は、慶応三年当初橋野高炉から鉄材を買っていたが、この時期には、材料節約を目的として、背盛、仰寶の背面を削って材料を減らしている。また、栗林には仰寶大字という固有の銭種があるが、これにも背に傾斜の付いた研磨痕がある品があるから、独自に母銭を製作しようとした形跡がある。

 「異書(下点盛)はこの時に作られた」という説はあながち完全に無視することは出来ない。

 もちろん、以上は出自に関する議論で、現存品に対する見解には変わることがない。本物は(一)で、(二)については「正銭の可能性がある」と言うに留まる。現存品は明らかに(三)以降の品であるから、異書(下点盛)の出自がどうあれ、いずれも後鋳品である。これには議論の余地はない。

 なお、この箇所に「原母は素銅だった」と記されており、これに従えば、銀製の鋳浚母が否定される。

 

その3)大迫や紫波郡徳田村から出て来た

宮氏の徳田村、平尾氏の岩谷堂

その多くが骨董商の手を経ている

 栗林地方ではない場所から、異書が発見された報告があるが、多くが骨董業者より買い求めたものなので、信頼が置けない。

 

その4)今回の新提供によりて所謂背盛字銭異書に二種ある事実

借用母銭に正確な一種を数え得べきことになった訳である

 現在の収集家の印象とは異なり、小田嶋らが承知していたのは、(二)及び(三)以降の品々だった。

 「今回の発見」とあるのは、「深川俯永の背に盛字を配したもの」であり、これは(二)以降とは書体や銭容が異なる。

 

その5)前者は背盛字銭として最古のものであり、後者はその形態の小と類品の極めて僅少なるより見て銭座末期に属すべきもの

 (一)については、大迫開座直後に稟議された銭種。

 (二)については、銭径が縮小し、類品が少ないことから、いずれかの銭座の末期に作成されたもの。と見なされる。

 あえて記すが、ここには(三)以降の品は解釈に入っていない。それらはいずれも参考品である。

 共通点は「盛字の点がやや下についている」ということのみである。

 

その6)之を二つに分類し置くべき

 相違が明確であるから、同じ「異書(下点盛)」として一括りに取り扱うべきではない。

 

その7)盛字銭中極めて少数の異書あるを発見したのは実は水原氏で、新渡戸氏は之に降点盛字の名を附された

(一)を盛岡藩鋳造貨幣盛字異書俯永とし(二)を同肥字と命名して置く。

 名称が不統一だったが、(一)と(二)を区分・命名する。

 この場合も、もちろん、(三)以降および、それらの系統の品を除く話である。現存品は概ね後鋳品である。(一)や(二)に合致する品があれば見てみたいものだ。(続く)

 

注記)総て、所感として書いている。一発殴り書きなので、不首尾も多いと思う。

 まずは原典をあたれということ。