◎「背盛字銭の新研究」を読む その7中間講評 暴々鶏
さて、これまで「新研究」について精読を試みて来たが、この段階で判明したことを整理する。
まず一つ目は、小田嶋古湶は「背盛異書」(=降点盛字、下点盛)という希少銭種、もしくは新銭種についての発見報告や分類報告をしようとしたものではないこと。
発想は逆で、「従来認められて来たこの銭種について、疑義を申し立てる」ところにあった。成り立ちや銭容などで、疑わしい点が幾つかある。
その結果、小田嶋は簡単な結論に行き着く。
1)「新研究」掲載の(一)(二)は本物で、(三)以降は写しであること。
2)鉄銭の正銭は見付かっておらず、当時の現存品は総て後鋳品であること。
そうなると、現存品について検証可能なのは、「どの型より生まれた品であるか」ということで、この段階で鑑定可能な部分がかなりある。
(一)と(二)および、それ以降の参考品の(三)とは面文の型そのものが異なるので、まずは前二者に一致していることが次に進む最低の要件である。
これが(三)以降の品と一致する野であれば、その時点で参考品と認定できることになる。
まず最初の「残念なお知らせ」はここにある。
平成二十年頃に、蔵主から現品を借り受けたり、あるいは銭譜やオークションカタログ等から銭影を採り、投影技法で型分類を行ったが、いずれも(三)に一致した。
要は「総て後鋳品である」ということで、小田嶋の言う「東京にある品」であり、「宮福蔵の旧蔵品から派生した品」ということになる。
鉄銭は言わずもがなで、「新研究」に「存在する可能性はゼロではないが、今のところ正品はない」と明記している。
昭和十年頃に、小笠原白雲居が銅鉄の下点盛を作成しているが、この時の品はむしろ厚手の立派なつくりをしている。鉄銭を数枚ほど地元より入手し、雑銭の会を通じて「研究用に」と提供したことがあったが、時が経つと「あら川銀判」のごとく「白雲居製」が消えてしまう。
「新研究」を読んでいれば、「そもそも稟議銭にも到達していない品」だから、「鉄銭に正品はない」ということが簡単に分かる。
九十年近く前に「二種以外に本物はない」と明言されていたのに、不思議なことにダメな方の系統の品が時々、世に出る。
何故こういうことが起きるのかというと、収集家は銭譜にしか目を通さぬし、とりわけ原典を調べることをしないところにある。
だから同じ「終わった議論」が繰り返し蒸し返される。
『岩手に於ける鋳銭』を精読してみると、同じようなことが幾つも起きており、要するに「誰一人本編を読んだ者がいない」という点で共通している。
ここで、嫌というほど「原典にあたれ」と言うのはこのためだ。
もし盛岡藩鋳銭として、「下点盛」を掲げるなら、「新研究」掲載の(一)だけに留めるべきだ。実際、掲載しない寛永銭譜も多い。但し書きは「江戸深川俯永を基に背に盛字を嵌入したもの」で、「現品は不明」である。
ここで、「しかし、小田嶋は(二)も正品と記していたではないか」と思う人もいるかもしれぬ。
だが、この(二)にも「宮福蔵旧蔵品」であることが分かっている。
また、(三)以降のほぼすべての品が宮福蔵の旧蔵品かそれから生まれた品である。
古拓の大川銭譜拓ですらその流れに沿っている(これも後出来である)。
盛岡藩の鋳造貨幣に「宮福蔵」関係品を入れてはならない。
注記)以上は個人の感想である、現品はいつでも鑑定出来るので、見せて貰えれば検討する。たぶん、「残念なお知らせ」となると思う。