日刊早坂ノボル新聞

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◎「背盛字銭の新研究」を読む (その7)  暴々鶏 

◎「背盛字銭の新研究」を読む (その7)  暴々鶏 

 「背に盛の字を入れて領内限通用とせよ」という幕府の命令を受け、急遽、江戸深川俯永を台とする母銭を作った。これが(一)の原型であり、実際のところ、(二)以降とは面文の書体が異なる(参考図4)。

 常識的には(一)は(二)以降とは別の出自と解釈する方が無難だ。(三)以降には著しい銭径の縮小がみられる。この(二)から(三)に向かう過程で「鋳浚い手法などの影響で生じた変化」が生まれたようだ。

 「降点盛字(下点盛)」なる銭種を明らかにするには、原初形態である(一)および(二)を捕捉することが近道だが、前述の通り、収集界では「史談会」の古拓以外に痕跡がない。

 この「繋がりの希薄さ」について、小田嶋は多大な疑問を持っていたようだ。

 

◆「大迫銭座」 (続6)        十五号501頁(14)~502頁(15)

 次に県内にある類品を調べてみると(一)に属すべき何物をも発見しないが、ただ(二)に属するものは僅かに数枚あることは分かった。(三は宮氏旧蔵品、四五六七は後鋳銭)

 しかもその全部が宮氏旧蔵品から生まれた後鋳銭で(四、五)、銭径も著しく小であり、鉄鋳のものも同様である。この鉄銭(七)は岩手古泉会誌2号に、宮氏の蔵品と並べ掲載されているもので、現所有者はこれを偽物として取り扱っている。要するに正しい盛字異書は余の所有する(一)(二)の他は無いという有様である。これから推して在京品に後鋳品の混在を疑う余地も出てくる。しかし鉄の子銭がこの現況から推して絶無であるとは断言されぬ。現に(二)には蝋(ろう)が付着してあった処から見て、これから生まれた錫母銭や銅の種銭と共に鉄銭が出てよい筈で、軽率に断言する前にまず探査の充分を期すべきである。

 然し類品の極めて少ないことだけは明らかで、研究の困難もまたここにあるのだが、真赤な鉄銭の中から(一)のような珍品まで飛び出す例もあるから、何処にいかなるものが埋もれているかは測られぬ。そこで広々世の注意を喚起し、さらに新資料の提供を熱望する次第である。

 なお、新たに探査さるる人々の為に一言して置くが、総て泉貨は原母ほど大形で、子孫代を重ねて行くほど小型になるから、図示した(二)の拓影よりも大形のものが発見されたらそれこそ望外の幸福であり、また種銭や鉄子銭の摘出も大発見といふべきである。

 とにかく類品の発見があったら、我等に一見さするだけの便は惜しまないように願って置く。 

◆暴々鶏解説

 この箇所は掲示の品に関する具体的な品評に関する部分である。

 記述箇所が前後するが、品ごとに特徴を整理すると下記の通りとなる。

 

(一)は大迫町誌編纂の折に小田嶋が入手。「真赤な鉄銭の中から(一)のような珍品まで飛び出す例もある」とあるが、(一)は「県内では(一)に属すべき何物をも発見しない」とあるので、事実上、掲示の品が「鉄銭の中から発見された」ということになる。

 

(二)は岩手古泉会誌に図示せられた品であり宮福蔵氏旧蔵品。(二)に属するものは僅かに県内に数枚ある。

 

(三)は宮福蔵旧蔵品。

(四)(五)(六)(七)は全部が宮氏旧蔵品から生まれた後鋳銭で(四、五)、銭径も著しく小であり、鉄鋳のもの(七)も同様。(七)は岩手古泉会誌第二号に宮氏旧蔵品と並んで掲載されている。

 

その5)正しい盛字異書は余の所有する(一)(二)の他は無い

その6)在京品に後鋳品の混在を疑う余地も出てくる。

 これまで現品を調べた範囲では、現存品はいずれも(三)の宮福蔵旧蔵品と型が同じで、かつ小型であるため、これから派生した品ということになる。簡単に言うと「いずれも正品ではない」ということ。

 

 ここで再度、要点を整理すると、

 (一)は製作を異にする品で俯永の背に「盛」字を嵌入した品もの。(二)は宮福蔵旧蔵品(岩手古泉会誌)。

 (三)以降(七)まではいずれも正品ではなく、(三)は宮福蔵旧蔵品。(四)以降は宮福蔵旧蔵品より生まれたもの。

 となると、現存品は今のところ、(三)の型に一致もしくは派生した品である、から、事実上、宮福蔵の蔵品の系譜に位置づけられる。

 ということになる。

 このページの見解は、実質的に「東京に渡った総ての品が宮福蔵旧蔵品に起源を発している」というのに近い。小田嶋の本音はたぶんこれだ。

 もっとも簡単な構図を言えば、大半が宮福蔵旧蔵品やそれに端を発した品なら、一体誰がそれを東京や地元の収集家に渡したのか、あるいは渡せたのかという点だ。

(この項暴々鶏)

 

その6)鉄の子銭がこの現況から推して絶無であるとは断言されぬ。現に(二)には蝋(ろう)が付着してあった処から見て、これから生まれた錫母銭や銅の種銭と共に鉄銭が出てよい

 現状として、鉄銭の本物は存在しないという見解である。ただし、鋳銭を行った痕があるので、錫母銭や銅母、鉄銭が出ても不自然ではない。

 ここは「稟議銭として作成するなら、通用鉄銭の見本をひと差かふた差作る筈である」という意味になる。

 この件は重要で、逆の視点に立てば、盛岡藩が作成した鉄銭の母銭として作ったなら、「鉄銭の母銭」としての仕様を供えていなくてはならないという意味にもなる。

 この意味で「下点盛」の現存品は、数百万枚の製造に耐えうる仕様にはなっていない。絵銭を作る時の要領で、少数枚だけを試行錯誤的に作ったので「鋳浚い変化」が生じたのではないか。

 この「一枚一枚を丁寧に作る」という発想は大量鋳銭を想定したものではない(この項暴々鶏)。

 

 明治から昭和初期にかけては、まだ誰も詳細を知らぬ状況下にあり、小田嶋らは一つひとつの事実を積み上げ、何が確からしい見解かを手探りで探していた。

 

注記)いつも通り、雑感として書いている。。真実を調べたい者は原典を当たること。

ここで言う「原典」とは古泉家の作成した分類譜のことではないので、念のため。