日刊早坂ノボル新聞

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◎「背盛字銭の新研究」を読む (その5)  暴々鶏 

◎「背盛字銭の新研究」を読む (その5)  暴々鶏 

 さて、「新研究」の文脈に従い、小田嶋及び当時の郷土史家がどのような認識をもって「背盛字銭」を眺めていたかを同時進行的に確かめる。

 これまでのところ、我々後代の者が持つ疑問は主に次のようなことであろう。

1)慶応二年の大迫開座に際して、盛岡藩が準備していたのは、無背銭で江戸公許の銭座より持ち帰った母銭を継承したもの、すなわち深川銭もしくは水戸銭だったと推察される。

 (一)は深川俯永を台とし、背に盛字を配したもの、とされるが、この時点で銭径が著しく縮小している。

2)原則として、銅銭鉄銭には交換相場があり、価値は銅>鉄が原則となっている。明治二年から四年にかけて、鉄銭の急増を受けて交換相場に開きが生じるとともに、銭そのもののサイズの規格が崩れるが、鋳銭の初期段階において、「銅銭より鉄銭が小さい」ということは有り得ない。

 この後、「新貨条例」(明治四年)以後、鉄銭は通貨としての機能を失い、明治六年には太政官令により、鉄材の転用が許されている。

3)その(一)に関する情報(現品・拓)を探して来たが、現在に至るまでその痕跡を見ない。

 文面から、俯永の背面に盛字を配した母銭から作った次世代の母銭と解釈できるが、鐁(刀)を使って意匠を整えている。これは(二)も同様だが、(三)以降は「銭径が縮小し、面背の研ぎが強い」という特徴となる。

4)(一)については、小田嶋が「大迫町誌編纂の折に入手した」とある。

 また、異書(下点盛)が収集界に初めて登場するのは、大正七年岩手古泉会の拓本によるが、この現品は「宮福蔵」旧蔵品である(七年時点での蔵主は小田嶋)。この銭種については、調べの付いた品は総てが宮福蔵の旧蔵品かそれから作成された品になっている。

 

 これらを念頭に置き、さらに読み進める。

 まず、「降点盛字(=異書=下点盛)銭の登場は大正七年の岩手古泉会誌掲載の拓」とあり、それと同一品の拓本が五号に掲載されている。これを確認する。 

 以下引用。

◆盛岡背盛字異書当四銭             (「南部史談会誌」第五号)

 (本銭は盛字の書体より降点盛字の名あり。)

 大迫銭座の最初の稟議銭にならん、未だに正式鉄子銭を見ず。然れども、当藩としては稟議品のありしを聞かず、また何ら記録の徽(き)するものなし。

 前述のごとく、幕府の命により盛字を付したる原母は、勿論、月舘太郎吉の彫刻によるものなるが、背盛字銭の母銭を見ゆるに皆一様にて、実に字画正然とし、鋳浚いによる字画の変化を見ざるに、本銭に限り、鋳浚いの為字画変化来たさざる物一枚もなし。

 思うに、銀彫母は月舘の手に依り、一般の母銭は当時の母銭係鋳物師利右エ門または佐太郎の手に依りて、鋳浚せられたるに非ずや。

 背盛字銭の鋳浚いと本銭の鋳浚いとを比較するに、前者は浅く軽きの感あり、後者は重く鏨の痕際立ちて見ゆ。

 今、本銭を稟議銭に置くも大正七年小田嶋氏の獲られたる母銭を見るに(図示せるもの)、鋳浚い面に蝋を塗れるを見ゆ。あるいは鉄子銭を鋳造せしものに非ずやと思わるる点無きにしも非ず、今後発見せらるる時なしとはせず、他日の調査に待つ。(引用ここまで。原文ママ

 

◆暴々鶏解説

 (二)は小田嶋の蔵品で、大正七年に岩手古泉会誌第2号に紹介され、昭和九年に南部史談会誌五号に掲載された同一品である。注記)掲示の(二)の型は昭和九年第五号掲載の拓と一致しないので(書体が異なり、サイズも大小)、厳密な型と言うより、「同じ降点盛字である」という意味範囲であろう。

 昭和九年に於ける見解は、

1)大迫銭座の最初の稟議銭だろうが、まだ鉄銭が発見されておらず、盛岡藩の鋳銭開始に際し稟議銭があったことは記録に残っていない。

2)背盛字銭は字画が整っており、鋳浚いによる変化がないが、この降点盛・異書は鋳浚い変化のない品がない(=書体が変化している)。

3)銀彫母は月舘太郎吉(八百八)が作成したもので、母銭の作成は鋳物師利右エ門または佐太郎が行ったのではないか。

 としている。

 

◆「大迫銭座」 (続4)          十五号499頁(10)~(11)

 一般に見らるる背盛の正字は鋳造量も相当に多いのであるが、不思議にも(二)の様な美術品とも称すべき鋳浚銭のあることを聞かない。即ち種銭を多く使用するものほど鋳浚銭の必要も多い筈だが、事実は反対になっているのは一寸附に落ちぬ。今東京にある(二)の類品は各字体に小異を見せており、これが原因を鋳浚いの結果と解されている様であるが、何故に(二)にのみ鋳浚銭が多いかが問題で、研究の余地を認める。先ず東京にある盛字異書の全部が果たして鋳浚なりや否やを調ぶる必要があり、その数も突き止めねばならぬ。中央古泉会の実情に通暁し郷土銭研究の権威なる水原氏は、その数を正に十指を屈すべしと言われたが、余は不幸にしてその大部を見得る機会を有しない。在京熱心家によりて開明さるるならば幸甚の至りである。

 

◆暴々鶏解説

5-1)背盛の正字

5-2)種銭を多く使用するものほど鋳浚銭の必要も多い筈

 公営・請負銭座の背盛銭は一手であるから、「正字」とは通常の背盛銭のことを指す。

 ここで指摘されているのは、

1)背盛正字銭は母銭、通用鉄銭とも存在量が多いのに、鋳浚い銭は殆ど観られぬのに、異書(二)より端を発した品は鋳浚い銭が多い。これは製造工程上、不自然だ。

2)東京にある盛字異書のうち鋳浚銭の存在数について、水原正太郎は「十枚」と言っている。

 といった事項である。

 

 以下は暴々鶏の見解になる。 

 現代の古泉収集家は、骨董品や美術品・工芸品としてのみ、貨幣を眺めるわけだが、慶応二年から明治二年くらいまでの間は、通貨としての認識で作成していた。

 もっとも違和感を覚えるのは、当初より「銅銭より小型の銭」として企画されたとされることだ。これは(二)の母銭以降について際立っている。

 その意味では、掲示の(二)以降の品は、経済性や製造工程の各面で、ルールに外れている面が多い 。

 これを解く鍵は(一)および(二)にあたる品と考え、長期に渡り追跡したが、史談会の記録以外に痕跡が見当たらなかった。

 なお製作が秀麗で、藩の彫金師が彫ったような出来栄えであることは、その品の出自を証明するものではない。明治三十年には岩手県勧業場に於いて鋳造実験が行われており、そこには鉄瓶鋳造師、元銭座職人が招聘され、技術開発にあたっていた。

 銭座職人が関与したのであれば、銭座と同様の出来の品を製造できるわけだが、閉座の後四半世紀を経過しており、鉄銭を貨幣と見なす考えも失われているから、「貨幣鋳造のルールに従わぬ」面が生じる。

 盛岡銅山銭の二期銭はその時に作られ、主だった天保母銭や絵銭数種などが作られている。なお、三期銭は銭座職人ではなく、勧業場の職員が関わったと推定される。これは製作が著しく劣るため、銭座で働いたことのある者の作品ではない、と言う意味だ。

(続く)