日刊早坂ノボル新聞

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◎「背盛字銭の新研究」を読む (その6)  暴々鶏

◎「背盛字銭の新研究」を読む (その6)  暴々鶏 

◆「大迫銭座」 (続5)        十五号499頁(12)~501頁(13)

 またこの原母を銀造とする説もあるが、これも眼界狭い我らにはわからない。平尾氏愛蔵のものは昭和7年其着衆仙輯に於いて、これを銀鋳盛岡当四鋳浚銭とし図を載せている。

 権威者の編述された信用すべきものであるばかりでなく、この銀鋳銭は決して(2)よりは大型でないことに於いてこれを彫母とは信ぜられない。しからば当然これが原母の探査も必要になってくる訳で、これに従来不明であった子銭の有無・鋳造の時代・その場所等も併せて研究するが無益でないことを信ずるもので、これにつきいささか参考となるべき二三を述べてみたい。

 まず今日まで知られている類品の全部を調ぶることにより氷解さるるものがあると思われるがこれは中々容易ではない。よってまず県内にあるものにつき調査し、一方、中央研究者の労を煩わすより他あるまいと思う。

 そこで参考資料として述べたいことは、今東京に行っている宮氏の旧蔵品は、(3)鋳浚品で無く鋳放しであったと証言する人のあることである。果たして然らば在京品に幾ばくの鋳浚銭ありやはいよいよ研究すべき必要を感じてくる。また、かの有名な盛岡銅山銭の原母は実に真鍮銭で、普通に彫母銭の材料を銀や素銅の様に思われているのに反して、皮肉にも硬質の真鍮を使用してあった事から推察すると、かの月館の如き名工が青銅や真鍮に原母を刻するは有り得ることで、この異書の原母はこの見地からも探究すべき用意は必要である。ことに藩鋳銭史の開祖たる新渡戸氏の如きは銀母は未だ見聞せしこと無しと断言せられているが、これも併せて参考とすべきことであろう。

 

◆暴々鶏解説

その6-1)原母を銀造とする説もある

 平尾(賛平)氏愛蔵のものは昭和7年其着衆仙輯に於いて、これを「銀鋳盛岡当四鋳浚銭」としてある。

その6-2)この銀鋳銭は決して(二)よりは大型でないことに於いてこれを彫母とは信ぜられない。

 彫母の彫刻は月舘八百八によるが、八百八は盛岡藩のお抱え飾り職人で、銀細工には慣れている。

 よって、八百八が彫母を作るに際し、銀を素材としたケースはあり得そうだが、平尾の掲示した品は(二)より小さいので、彫り母ではあり得ない。要は月舘八百八の作った品ではないということ。

 飾り職人の月舘八百八の作った品で無いなら、「銀製」が引っ掛かる。

 新渡戸の言う通り、「盛岡藩に銀で原母を作った例は皆無」だからである。

 銭座職人は銀を素材とする母銭は作らない。

 

その6-3)今東京に行っている宮氏の旧蔵品は、(三)鋳浚品で無く鋳放しであった

 掲図拓の(三)は、宮福蔵の旧蔵品だが(三)、鋳浚い品ではなく鋳放しであった。

 ここでこれまでのおさらいをすると、

 (一)は大迫町誌作成の折に、小田嶋が入手したもの(入手先は不明)。

 (二)は宮福蔵旧蔵品。

 (三)は宮福蔵旧蔵品。鋳放し品。

 入手先を辿って行くと、やたら宮福蔵旧蔵に行き当たる。

 なお、宮福蔵は岩手県職員であり、明治三十年には勧業場に勤務していたが、郷土史家でも古貨幣収集家でもない。

 

その6-4)盛岡銅山銭の原母は実に真鍮銭で、普通に彫母銭の材料を銀や素銅の様に思われているのに反して、皮肉にも硬質の真鍮を使用してあった

 彫り母銭の材料は、銀や素銅が普通。 → 彫金師が彫るから。

 しかし、盛岡銅山銭の彫母は真鍮銭だった。

 ちなみに、面背を反面ずつ別々に彫っており、この半面が戦前の中国で発見されている(旧「貨幣」誌に記録在り)。

 このため、青銅、真鍮製の彫り母が存在していないかを確認する必要がある。

 

の6-5)銀母は未だ見聞せしこと無しと断言せられている

 新渡戸仙岳の説では、銀母は県内では「見たことも聞いたこともない」と断言している。

 

 地元の者が一度も見聞きしたことのない品が、中央の古泉書、銭譜に掲載されているケースはよくある。あるいは、地元では製造の経緯が分かっている品が、中央で希少品として紹介されるケースも多々ある。

 代表的な事例は「あら川銀判」。これは瀬川安五郎が銅山開発に成功した時の記念品であり、この由の説明書きに記されていた。中央に渡った時点で、説明文が取れ、「南部の地方判」として紹介されたようで、後年、この「後鋳性」を疑う見解が大真面目で議論された。そもそもが記念品であり、古貨幣でないことは、地元に訊けば即時解決した。

 

以下は暴々鶏の見解になる。

 古拓の銀製鋳浚い母を含め、(三)以降の品が(二)より小さいことは明らかで、よって、銀製の原母では有り得ない。彫母以外には、月舘の関与はないので、銀鋳浚い母は盛岡藩の当四銭の大迫開座の初期に作られたものではないと言える。

 もっとも不自然な事実は、(二)と(三)に始まり、現存銭に繋がるこの銭種の大半が「宮福蔵旧蔵品」であるということだろう。

 (一)(二)はサイズと型(書体)について、(三)以降とは共通点が少なく、次の(三)との間に明白な断層(遷急点)がある。

 多くの品が宮福蔵旧蔵品になるのだが、宮福蔵は一体どこからこれらを入手したのか。

 追記)「新研究」では、小田嶋は、宮福蔵や中央の古泉界に敬意を払っており、言葉を選んでいるが、(三)系統の品については、疑念を持っていたことが分かる。

 最初の(一)(二)と銭容や製作が違い過ぎるし、何百万枚もの鉄銭を作るための準備にしては不合理な点があり過ぎる。

 

 注記)推敲・校正なしの一発書き殴りであり、思い出話として記している。厳密さに欠けるところも多々あると思う。