◎父のご供養に行く
二日ほど前、車に乗った際に、父が助手席にいるのを感じた。
煙草の匂いがしたから、きっと五十二三歳くらい。その頃まで父は煙草を吸っていた。
「もう俺のところには来ないかと思っていたけど」
母は時々、当家の洗面所に来て、「来た」と示すために、洗濯機の電源を入れる。朝の四時に「ピッ」と電源が入ったりするから、あれはたぶん母だ。
母は生前、当家に来ると、まったく休むことなく、掃除をしたり洗濯をしたりした。
父はいつも「死ねば終わり。幽霊はいない」と言っていたから、自分が死んでもそれにはならない筈だったが。
だが、当方の前に出るのは正解だ。気が付いて、お寺に連れて行ってくれる。
そこでこの日は朝から、馴染みのお寺に行き、父のご供養をした。ご供養と言っても特別なことはせず、「父がすぐ傍にいると見なして、普通に話をする」だけだ。
「お袋が腹を立てたのは、親父がお袋へのお迎えを彼氏だと勘違いをして蹴とばしたからなんだよ。お袋は三途の川の手前で俺を待っているから、親父がそこに行って先に謝るんだよ」
父はあの世を信じようとしなかったから、いざ現物(のあの世の住人)を見ても受け入れられなかった。
目の前に現れる「お迎え」は、写真とは違い、半透明でも朧気でもなく、普通の人間の姿をしている。
手を伸ばせば、もちろん、触れる。
実体化した後なら、生きている者と変わりはない。
あの世は「心象が現実になる」世界だから、思い描いたことが総て現実のものとして現れる。もちろん、その本人にとっては、だが。
生きている者の空想や妄想は現実化することはないのだが、あの世ではそれが現実に化けるし、現実そのものだと言ってよい。
だから、心持ちを整えることが、死後に平穏を得られるかどうかに反映される。
「というわけだから、まずは今の自分の状態を見直すところからだからね。その後できちんとお袋に詫びを入れること」
この日は二日前ほど鮮明には父の所在を感じなかったが、そこにいると見なして語ることが大切だ。
心は波のような性質を持つから、とにかく波動を送ることが重要だ。これを繰り返しているうちに、その波の波長に父が合わせられるようになるかもしれん。
死ぬと思考能力を失うから、そこで錯乱する者も多い。
生きている者の務めは、穏やかな波動を送り、落ち着かせることだと思う。
帰路には、トラの神社に参拝した。
例によって、右腕が「鬼の手」に化け、半分無くなっていた。
よく見ると、あちこちに眼玉が開いているから、沢山寄り憑いているようだ。
これからの時期には当たり前の事態で、この日は雨で、かつ午前中だから、鮮明には撮影出来ない。