日刊早坂ノボル新聞

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◎夢の話 第1K48夜の後日談

◎夢の話 第1K48夜の後日談 

 深夜、人のいない工事現場で鉄板が倒れたような大きな音がした件について付記する。

 ユンボ移動用の床板をひっくり返した音だと思ったが、水の入ったドラム缶があったから、あるいはこれをハンマーで叩いた音のよう。午前三時なら近所の人で目を覚ました人もいる。

 

 ところで、少し南にある小学校からこの辺一帯は中世の合戦場だった。

 小学校の敷地の隅には、合戦の事績を記す石碑がある。

 この地に空き地が多かった頃は、夜に撮影すると煙玉が乱れ飛んでいたが、今見ると、この工事で地縁の者(複数)が押しのけられ、隅に立って工事現場を見ているようだ。

 地鎮祭を丁寧に行い、受け入れてもらう必要がある。

 今回、工事現場を撮影しようと、シャッターを押す時に、女が立っているさまが写るのではないかと思い、少しヒヤッとした。

 

 当家の階段と台所の中間くらいが、いわゆる「通り道」になっているので、何となく「家の中に誰かがいる」ような気がすることがある。

 時々、台所のカウンターの陰に「着物を着た女が立っている」と記すことがあったが、なるほどそれなりの理由があったのだ。

 今、工事現場に立っているのは、中世由来の者ではなく、かつて大正から昭和戦前に生きていた人ではないかと思う。

 過去に半年以上の期間に渡り、「縞紬の着物を着た女」が、毎夜、夢に現れたことがあるが、あれはこういうことだったか。

 当家で起きる不審事は、総てが繋がっていたわけだ。

 あるひとつの地点に「この世」と「あの世」の交流点みたいなものが出来ることは時々ある。だが、そういうのは普通、数か月から数年で消えてしまう。

 この周辺は、たぶん、百年以上前から溜まりやすい場所になっていたようだ。

 

 自分では抜けられず、誰かに「助けて欲しい」から、当家の玄関の扉を叩き、受話器を鳴らす。

 私が気付くはずなのに、なかなか見てくれぬから、時々、腹を立て地団太を踏んだ。

 礼を尽くして地の神にお願いしないと、いずれ建つ新築の家の中で、不審事が頻発すると思う。

 

 さて、これまで、あの世のことを頻繁に記して来たが、特に詳述もしなかったので、「変なヤツ」「奇人」と思われているだろうと思う。好奇心だけの者に説明を試みるほど不毛なことはないので、面倒なので「気のせい」と記すことも多かった。

 だが、ここで起きていることは現実の一端だ。

 今回、お師匠さまの許しが出たので、「ここにどういう所縁があるか」みたいな話をしても良くなった。

 最も書き残したいのは、「あの世」の成り立ちのことだが、師匠の説明は合理的で分かりよかった。

 概念図みたいなものまで見せられたが、ほとんどの宗教を否定する内容だから、「口外してはならない」とのことだ。

 人は愚かなので、自身の信じるものを否定されると、相手を敵視し攻撃する。

 そういうやり取りには何の意味もない。時間の無駄ということ。

 各々が好きなものを信じ、好きなように生き、死ねばよい。でも、死後はお師匠さまの言う通りの規則に従うことになる。「あの世」は多くの宗教が語るような二元的な構造ではなく一元だ。

 お師匠さまも、あるいはアモンらの悪縁も根は同じ。

 ま、注意深く「生き死に」を観察していないと一片も理解出来ないとは思う。

 ちなみに、工事現場の境に植木の類が見えるが、今はそこに少なくとも四つの目がこの土地の様子を見ている。

 

 とりあえず、この数年で最大の窮地は脱すことが出来たと思う。

 あの世の障りは、「悪意はなかった」「たまたま入り込んだだけ」などというこの世の言い訳とは無縁で、ダメなものはダメだ。言い訳など通用しない。

 祓えも救えもしないのが普通なのだが、ひとまず幾らかは猶予を貰えたのではないかと思う。

 半年を超え苦しんだが、今はそれでも「幸運だった」と思う。