日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎出来事に整合性が取れている

◎出来事に整合性が取れている

 これまでの観察により分かったことは、まず「あの世(幽界)は精神世界ではなく、物質によって成り立っている」ことだ。おそらくは、まだ未知の物質が関わっている。

 「霧」のような粒子(または気体)のような特性を示すかと思えば、光や音のように「波」の特性に見えることもある。

 これまで気付かれて来なかったのは、人間の視角域の境界線を跨ぐように存在しているからだ。

 だが、物質であれば、変化には何らかの副次的変化が伴う筈だ。

 さらに、客観的事実と符合する変化が認められるのであれば、「死後の存在」を実証する手助けになる。まずはそこからだ。

 ま、そこまで大仰に構えずに、まずは身近な例から、あれこれ確かめて行くことにした。

 図1 過去一年間の起床時血圧の変化

 画像は過去一年間尾起床時の血圧の変化を示すグラフだ。たまたま持病があり、日々の体調の変化を詳細に記録していたから、まずは何か出来事と符合するものの有無を確かめる。

 今年の二月から五月まで、私はかつてなく体調を崩し、この間に八キロほど痩せた。一年間では、ほぼ十四キロ減で、ひたすら痩せて来た。この春には息が出来ず、横になるのもままならぬ状態だった。 

 血圧の状態を見ると、明確な遷急点が認められ、昨年の十一月と今年の六月初めくらいに変化の折り目がある。

 昨年の十一月と言えば、十月末に稲荷の神域に触れて以後、次々に異変(幽霊)が身近なところに現れ出した頃になる。これは幾度も記したので省略する。

 その次の分岐点は今年の五月末から六月頃だ。

 この頃には、一体何が起きていたのかを、ブログ記事から拾ってみる。(以下引用)

 

◎R040609 夢の話 第1K48夜 この世界の成り立ち

 (六月)九日午前二時頃に夢を観た。

 その夢には、私が「お師匠さま」と呼ぶ短髪の男が現れ、これから向かうべき「あの世」について語った。

 話の内容はもはや講義と言ってよいほどで、世界の成り立ちや霊魂の循環に至るまでを詳細に説明した。

 そのことを、先ほど文字に落とし始めていたが、途中でちょっとした異変が起き始めた。

 まずは電話だ。回線の繋がっていない受話器が「ツツー」と通信音を立てた。

 その次に、造成工事中の隣家の敷地で、ユンボ(ショベル機)から「がったーん」と音を立て、金属の板が落ちた。

 偶然上から落ちることなど有り得ぬ重量なので、思わずぞっとした。近所中に響く音だ。

 ここで夢の最後の部分を思い出した。

 「このことは他言無用だ。どうせ話しても分からない。まずは君がよりよく理解しろ」

 なるほど。書いてもダメだということか。

 人気のない場所で、数十キロの鉄板が倒れる音を聞くと、不審事には慣れているつもりでも、さすがにドキッとする。

 ペットボトルや本が倒れる程度なら、どこかに「たまたまかも」という意識があるから、割と平然としていられる。だが、言い訳の利かぬ不審事の場合は、答えがひとつしかない。

 何者かが意図的に力を加えねば、そのことが現実に起きることはない。

 

 目覚めて気付いたが、「お師匠さま」と話をしたら、体の調子が少し改善されていた。息苦しさで起こされず、五六時間寝たようだ。

 

 だが、今は日中に「視界の端を稲妻のような光が横切る」ことがよくあるので、注意が必要な状況であるのは変わりない。

 「得体の知れぬ光を見る」のは、死期の迫った者に現れる兆候のひとつでもある。

 

 「語るな」と言われても、「この世界がどんな風に出来ているか」を知らされたら、思わず誰か別の者に語りたくなってしまう。暫くはイライラしそう。

 さて、あと何段階か改善されれば、ようやく自由にキーを打てるようになると思う。

 

◎R040609 「夢の話 第1K48夜」の翌日になって (※起床後なので「翌日」の扱いに)

 このひと月に起きた不審事は概ね次の通り。

1)スマホ音声認識のスイッチこそ入っていたが、何も声を掛けていないのに、勝手に「憑いた、憑いた」と話したこと。三日間に渡り続いた。

2)午前三時頃に、娘たちの部屋の中を何者かが歩き、小物を床に落としたこと。

そして昨日の出来事はこれ。

3)回線の繋がっていない電話から通話信号が出たこと。(久々に出た。)

4)誰もいない隣家の工事現場で、鉄板が倒れたこと。

 今にして思えば、これら全部が実は繋がっていたのではないかと思う。

 追加付記)「鉄板が倒れた」のではなく、「ドラム缶を棒で力任せに叩いた」音のようだった。

 実際に体験すると、一つひとつがもの凄く気味悪い。

 昨夜、私が「お師匠さま」と呼ぶ短髪の男が夢に出たのだが、翌朝からは、階段を三段一度に上がるように楽になった。

 帰路はスーパーに寄り、屋上へ階段で上がれたほどだ(もちろん、しんどいが放棄せず上がれた)。

 鉄板の音は「腹立ち紛れ」の行為だったような気がする。

 さて、一時的なものかもしれぬが、昨秋拾った悪縁のひとつが「離れた」と思う。

 これには「お師匠さま」以外の要因はない。 

 このジャンルでは、起きる者には想定外のことがどんどん起きるが、起きぬ者にはまったく起きないから、自分でも「俄かには信じられぬ話」だと思う。

 「お師匠さま」は折々にヒントをくれるが、手を出して助けてはくれない。あくまで自助が基本だ。

 人の苦しみは殆どが現性欲・現世利益に関わっているから、多くの場合、「助ける」はその欲を満たしいてくれるということだ。

 そういうのは到底、「善霊」ではないから、世間で言う「守護霊」みたいな存在はない。簡単に手を出して助けてくれるのは、むしろ悪縁のほうだ。

 

 総ての起点は、昨秋、うっかり「冒してはならぬ村社」のエリア内に足を踏み入れてしまい、悪縁に寄り憑かれた時から始まったことだ。

 正直、「一気にあの世に持っていかれずに良かった」と思う。

 もちろん、相撲で言えば、徳俵から「踵半分だけ土俵内に戻った」と言う程度だ。

 今回ばかりは往生した。(引用ここまで)

 

 「体調が悪化を始める時点」と「改善の兆しが見え始める時点」について、それぞれ象徴的な出来事が起きているわけだが、もちろん、これにより、何かしらの因果連関を語ることは出来ない。昨年十一月に体調が悪化し始めたから妄想を見始めたのかもしれぬし、あるいは、今年の五六月に具合が良くなり始めたから「お師匠さま」が助けてくれたと認識したのかもしれぬ。

 問題の本質は、認識レベルの話ではなく、さらにその時々に、「誰が見ても同じように見える」客観的変化が事実として確認出来るかどうかということにかかっている。

 この項は追って続伸する。検証にはまだ時間がかかると思う。