日刊早坂ノボル新聞

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◎この八か月を振り返る

◎この八か月を振り返る

 体調不良、および人事の悪化が長期にわたり続いたが、ようやく好転の兆しが見えて来た。

 そこで気が付いたことは、「総てが系統的に繋がっていた」ことだ。

 ここでこれまでの経過を振り返る。

 

 N湖を訪れるようになったのは、もはや五年以上前のことだが、三年前に転機が生じた。

 突然、画像の中に人影らしき姿が写るようになったのだ。

 そのきっかけは、ある一地点の傍に立ち寄ったことだ。

 最初の画像がその地点なのだが、以前にもこの近くに来たことはある。

 その際には、警察の舟艇が二隻湖岸に着くところを眼にしている。

 橋の上から下を見下ろすと、何やら胸騒ぎがする。

 そして、最も嫌な感じのする方向を向くと、草叢の中に黒い服を着た女が立っていた。

 女は背中を向け俯いている。

 錯覚、気のせいか、あるいは実際に立っているのかを確かめるために、写真を撮影した。

 すぐに画像を開いて見たが、黒っぽい影が僅かに見えるだけで、目視で見たようなはっきりした姿ではない。

 (これは後で分かったが、目視する鮮明さがはっきりしていればいるほど、画像にはあまりよく写らない。逆に肉眼ではぼんやりとした影だけの時に、割合、顔や体が出ていたりする。)

 気のせいかと思い、もう一度その位置を見ると、黒い女はこっちを見上げていた。

 このことは出して見せることが出来ないので、記録に残さずに置いた。他の者に確認出来ぬものを説明しようとしても、あまり意味がない。結局は「気のせい」になってしまう。

 

 さて、その地点の一部、画像では下の方にまるで「子どもの顔」のようなかたちをした一角がある。

 もちろん、人の顔、要するに幽霊がかたちを表したものではない。単純に「輪郭の中に点が二つあると、人間はそれを顔になぞらえる」という心理的効果(「パレイドリア効果」)により、顔っぽく認識するだけだ。かたち自体は「気のせい」なのだが、重要なことは、それが「異常に薄気味悪い」ということだ。とにかく嫌な感じがする。

 (これも後で分かったが、これは交流点を示す標識のようなものだ。あるいは、私はこの世とあの世を繋ぐ「穴」と呼んだりもする。自然と幽霊が集まる場所には、こんな感じの「とにかく薄気味悪い藩域」が出来ている。これは通常、丸い玉、すなわち球状をしている。)

 

 「穴」は幽霊が出入りするところなので、そこに近づくと常時、変事が起きる。声や物音を聞いたり、人影を見たりする。事実上、世間で言う「スポット」と同じ意味だ。

 この時以降、この地点の前に来ると、必ず人の話す声を耳にするようになった。

 当初は湖の向こう側で釣り客が話す声だと見なしていたが、向こう岸までは百㍍以上の距離がある。開けた地形で、ドーム効果もないわけだから、この距離を超えて声が届くことは考えにくい。

 この声は、私一人にだけ聞こえるものではなく、誰の耳にも聞こえる。家人を連れて行ったことがあるが、やはり「聞こえる」と言っていた。

 幽霊の話し声を聞いたことのある者は、すぐに分かると思うが、「カヤカヤ」と襖二枚隔てた向こうの部屋で誰かが話す声に似ている。

 (他の場所、例えば宿谷の滝や鎌北湖でも穴が出来ていたことがあるが、「穴」は時間の経過と共に開いたり閉じたりする性質のものらしく、半年くらいで消失した。通常、短ければ数か月、長くとも一二年で他に移動してしまうようだ。)

 

 画像の五枚目からは、その地点を訪れたことが原因で起きたことの一例だ。

 いずれもN湖を訪問し、お焼香をした後で神社に行き、そこでガラスに映る自分自身を撮影したものだ。

 画像だけ見ると、あまり鮮明ではなく、それが人影が分かりにくいかもしれぬが、私にはよく分かる。

 何故なら、私はN湖にいる時から、帰路ずっと声を聞いていたことによる。要は私の後をついて来たということだ。

 そういうことが度々起きたので、今度は逆にそれを促すことにした。

 ご供養を施す時に、「どうしても出られぬのであれば、後をついて来るとよい」と声を掛けることにしたのだ。ただし、「常に手の届く距離のうちには入らぬこと」という条件付きだ。

 穴の近くから引き上げ、霊気の流れのある所に連れて行けば、幽霊は自然に離れて行く。

 お寺や神社を訪れ、穏やかな時間を過ごしているうちに、気が付くと「声」が消えている。

 ボソボソと呟くような小さい声が止んでいることで、「既に離れた」ことが分かる。

 

 この状況が二年ほど続き、N湖のこの地点では異変が起きなくなった。中心は「声」だったのだが、その声も聞こえなくなった。湖岸には護岸工事が施され、あの地点もすっかり姿を変えた。

 (最近知ったが、同じ湖の別の位置に移ったらしい。)

 さて、状況が一変したのは、昨年の秋になる。

 これは幾度も記したので省略するが、ある稲荷村社の神域にそれと気付かず、うっかり入りこんでしまった。私は稲荷神社と相性が悪いらしく、境内に入ると気分が悪くなる。このため、この神社に足を踏み入れることはない。

だが、この時は気付かなかった。手を合わせる直前になり、ここが稲荷だと気付き、ひとまず礼拝を行って立ち去ろうとしたが、鳥居付近で「蜘蛛の巣(糸)が頭にかかったような感触」を覚えた。

手で払ってみるが、実際には何もない。 

 (後で、これが悪縁(霊)に取り憑かれた時の体感だと分かった。)

 

 その後は異常なことばかり起きる。

 程なく家人を伴い、秩父を訪れたのだが、蕎麦店で撮影したのが八枚目だ。

 その場には一番奥に家人、間にアクリル板が入り、そのアクリル板に私の影が映っている。

 ところが、家人の服の皺の部分にどうしても違和感がある。

 N湖でみたような「一見して顔のように見える標識(マーク)」がアクリル板の上に出ているのだ。

 ここには、私の頭から胸にかけての黒い影が映る筈だが、ただひたすら気色が悪いしるしが出ている。

 重点は「顔のように見える」ではなく、後段の「ひたすら気色が悪い」という部分だ。

 顔のかたち自体は単に「パレイドリア効果」で「気のせい」なのだが、それとは別の不快感を覚える。

 

 その後、改めて十一月に秩父まで紅葉見物に行ったのだが、そこで事態が分かった。

 私は「頻繁に、周囲を煙玉が飛ぶ」「幽霊が写る」という理由で、滅多に画像の被写体にはならないのだが、家人が無断で私を撮影していた。

 この画像には、私の右側の男の顔の半分が出ている。

 私の右腕の下側には、まるで画像を切り取ったように、服が切れている箇所がある。

 (後で分かったが、男が私をひと突きしたようだ。)

 そのことで、私の体が反応し、腹部に煙玉が出現した。

 (こういう感じの煙玉は主に生体反応によるもので、磁気などの著しい変化が影響しているのではないかと思う。)

 

 以後の出来事については、その都度詳細に記した。

 体調不良はどんどん悪化して、原因のよく分からない喘息症状、肺炎に進行した。

 人事の方も次第に追い詰められていく。

 説明の付かぬ異変の一例については、

1)スマホ音声認識のスイッチこそ入っていたが、何も声を掛けていないのに、勝手に「憑いた、憑いた」と話した。テーブルに置いてあるスマホがひとりでに話す。

2)午前三時頃に、娘たちの部屋(空室)の中を誰かが歩き、小物を床に落とす。

3)回線の繋がっていない電話(電源だけ)から通話信号が出る。

4)視界の端にオレンジ色や黄色い光が走る。

 などが複数回起き、また、つい数日前になり

4)隣家の工事現場で、水の入ったドラム缶を角材で叩く音がする。

 ということが起きた。

 

 かれこれ八か月に渡り、延々と苦境が続いたのだが、ここにきて、少し光明が見えて来た。

 症状が少しく改善され、睡眠を取ることが出来るようになった。

 境目も割とはっきりしており、夢の中に私が「お師匠さま」と呼ぶ男性が現れたことがきっかけになる。「お師匠さま」がどういう存在なのかははっきりとは分からない。

 目覚めた日の朝から、それまで常時150―160台だった血圧が120まで落ちた。

 もちろん、この先は分からない。

 このまま少しこの世に引き戻されるのか、数日後、もしくは数週間後、数か月後にあの世に旅立つのかは分からない。だが、この春の勢いのまま、「持って行かれる」わけではないのは確かだ。

 

 今回、最も着目しているのは、N湖岸で見た「顔もどき」、蕎麦屋のアクリル板の上に出た「顔もどき」の共通点だ。いずれも顔ではなく標識だ。

 蕎麦屋のそれを見た時に、真っ先に考えたのは、「この顔(らしきもの)は前にも見たことがある」ということだった。時と場所も特定出来る。あのN湖岸の「穴」だった。

 これが「穴」の一種だとすると、「もしかすると、私にも『穴』が出来ていたのかもしれぬ」と思うのだ。

 私には常時、数十、数百の亡者がつきまとっているわけだが、これまではその理由を「自分がかつて心停止したこと」に結び付けて考えていた。そのことと関係しているのかどうかは分からぬが、私の傍に「穴」があり、幽霊・亡者にはそれが分かるから、すぐに私を認め、にじり寄ろうとするのではないのか。

 姿を眼にすること以上に、「音(声)」を聴くことの方がはるかに多い。穴の向こう側にいれば、姿は見えぬが、声は届く。そんな理屈だろう。

 

 人間に心根の良い人と悪い人がいるように、幽霊・亡者には、執着心に囚われた者と、悪意に囚われた者がいる。稲荷村社で、たまたま私の穴を見た悪縁(霊)は、とりあえず「飛び込んで来た」のかもしれぬ。 

 

 かつて、悪縁(魔)アモンが姿を現した時には、通常は見せぬ筈の「妖怪のような姿」を晒してでも私を掴み取ろうとした。あるいは、他の者に取り憑いた女の悪縁が、その人の体をがっちりと掴んでいるのにも関わらず、視線を私に向けたままだった。

 正確には「私」ではなく、私の前にある「穴」を見ていたのだろう。

注記)時間的余裕がなく、推敲も校正もしません。不首尾はあると思います。