日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎瞼を開けて見る者にしか見えない

瞼を開けて見る者にしか見えない

 看護師のユキコさんはN湖の近くに住んでいる。

 一時期、私は頻繁にN湖を訪れていたが、ユキコさんはそれを知ると「何故?」と尋ねた。

 こういうのは嘘を吐いても仕方がないので、「実はご供養に行っている」と正直に答えた。

 「変なヤツ」「いかれた人」の境目に立つので、少しヒヤッとする。

 「宗教の学会(教会)の者です」と自己紹介された時のあのヒヤッとする感覚だ。

 ある時、たまたまN湖で幽霊に出会ったが、あまりにも数が多いので、浄霊を施すことにした。それから一年くらいは月に三度から五度ほどN湖を訪れてお焼香をした。

 その始まりが平成三十一年くらいだったが、冒頭でユキコさんに訊かれたのは三年後(令和三)くらいの時点になる。

 すると、ユキコさんは「自分はあそことここが何となく気色悪く感じる」と言った。

 その場所がちょうど穴(あの世との結節点)の位置に合致していたので、ユキコさんは「聞く準備が出来ている」と分かった。

 このため、普段は滅多に「あの世」の話題を口に出さぬのだが、ユキコさんには割と話すことにした。

 「聞く準備と見る覚悟」の出来ていない者に何かを伝えようとすることほど無駄なことはない。自分が目をつむっているのに気が付かず、「見えないからいない」「存在しない」と言い張る者には、何を説明しても永久に見えない。

 逆に本当は何も見ていないのに「見える」「聞こえる」という者も居る。これが割と「霊能者」で名が知られていたりする。要するに「ただの想像」なのだが、そもそも第六感、霊感は想像や妄想の先にある。いつも記す通り、霊感は特別な能力ではない。そんなのは存在しないからだ。

 

 さて、ユキコさんは既に穴(結節点)の所在を感じ取っているから、同時に相手側からも見られる立場になっている。相手を意識するのは、音叉が共振するのに似ている。これは共感や理解と変わりなく、相手側からも認知されやすくなる。心情が似たような状態であれば尚更だ。 

 幽霊がまったく見えず聞こえぬ者は、割合、「曰くありげな場所に立ち入っても平気だ」と言われるが、これはあの世の側からも認知され難いことによる。

 ユキコさんの場合は、いずれ見たり聞いたりするようになる筈なので、ある程度、身の処し方を習熟して置いた方がよいと思う。

 それももちろん、本人の意志によるので、予め確認したうえで、先日の八幡さまの画像を見せた。

 膝丈スカートの女性が私の肩に頭を乗せている画像だ。

 こういうことは、誰の身にも、日常的に起きている。幽霊がついたり離れたりしているわけだが、殆どの人にはあまり影響がない。気分転換をして、買い物に行き人込みの中に入れば、そこで消える。

 だが、心中に怒りや悲しみ、恨み辛みの念が満ちていたりすると、そのことを手掛かりに、別の者(幽霊)が心の中に入り込んでしまう。

 いつの間にか取り込んで、同化させてしまうばかりか、心を乗っ取られることにもなりかねない。

 

 「相手の所在を意識して、間に距離を置くことを心掛けるだけでいいのです」

 ご供養を施したりするのも、その一環であるし、急場には「私には助けられぬから近くに寄るな」と命じればよい。やり方は様々だが、とにかく「距離を置く」ということだ。

 

 ところが、画像を見た後で、ユキコさんがこう言った。

 「女の人が立っているのは見えますが、Kさんの姿が消えています。これは何故ですか」

 

 人は自分の見たいように外界を捉える。自分が見えているものと同じものを他の人が見ているとは限らない。

 この画像にしても、半分くらいの人は「何が写っているのかが分からない」筈だ。ただの影だ。

 二割から三割の人が、中心に誰か(私)が立っていて、さらに「何となく後ろにもう一人いるような気がする」。

 私自身は既に何百枚と画像を見て、煙の奥をどう見通すかを心得ているので、背後の女だけでなく、私の首を押さえつけている左上の鬼女や、膝丈スカートの女性を背後から引き剥がそうとしている鬼婆の姿が見える。これは他の人には見えぬので、想像や妄想、すなわち第六感の域になる。

 だが、ユキコさんのように、「私の姿が見えぬ」ことに着目するのは珍しい。

 そこで次のような説明をした。

 「ガラス戸に映る像なのではっきりとは映らない」

 「そこに映るのは、普段目視する日光とは違う波長域の光を反射したもの」

 正確には、特定の波長域の光を選別して跳ね返して寄こしたもの、になる。

 さらに、

 「周りを幽霊が囲んでいるので、中和効果みたいなものが生じ、人の姿が消えてしまう」ことがあると説明した。

 普段、人間が眼で見ているのは、「物体」ではなく、「物体に反射した光」を見ている。光は波の特徴があるので、ピンポイントでさかさまの波を合わせることが出来れば、波が消える。

 

 ここで改めて思ったのは、ユキコさんはもう準備が出来ているということだ。

 それは、やはり喫緊の用意と心構えが必要だということでもある。

 ユキコさんが「困った時には助けてくれますか」と問うので、「もちろんです」と答えた。

 瞼が開いているのなら何ら問題はない。

 

 ここで改めて、従前のN湖の画像を見た。

 「たぶん、何も見えず、感じぬ人が大半だろう」と思う。これがひとつの盲点で、当事者(私)にはその場で声が聞こえたり、感情の揺らぎが伝わったりするからそれと分かるのだが、画像だけを見て、かつ瞼を閉じていれば、何もないただの景色だ。そのことは逆に私やユキコさんの側からは分からない。

 目の前にはっきり出ているというのに、他の者に何故それが見えぬのかが理解できない。自分にははっきりと見えているからだ。

 だが、他の人が「瞼を閉じているから」だと見なせば、それも当然だと思う。

 

追記)N湖の近くの山の中では、無数の人影がただうろうろと歩き回っている。ファインダを覗いて山の中に目を向けたのだが、木々の間に、自分の前だけを見て、ぐるぐると山を回っている人影が見えたのだ。

 「あの中に立ち入ったら、俺やユキコさんなら不味いことになるだろう」と思う。

 理由なく不意に人が消えてしまうのは、この手の事情、すなわち「穴に入り込んでしまったから」というケースが関わっている場合がある(全てではない)。

 出られなくなれば、他の者と同様に、幾ら歩いても終わりのない山道を彷徨うことになる。

 ユキコさんには「キノコ採りにあの付近に入ったらダメだ」と伝えた。

 

 関係のない者にはまるで関係が無く、出入りしても影響がない。こういうのは本当に不平等だと思う。こっちは普通に道を歩く時にも、位置を選んで通るようにしている。

 私ほど障りを得ると、外出する度に「誰か(または何か)」を連れて帰る。