日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 5/4 三重苦

病棟日誌 5/4 三重苦

 木曜は通院日。タオルとパジャマを持参して病棟に向かうのだが、珍しく三十分早めに着いた。ベッドにタオルを敷こうとすると、あんれまあタオルが無い。あるのはパジャマがふた組だ。

 バッグに入れる時に確認したつもりだったが、意識が飛んで、より分けた方のパジャマを入れて来たようだ。

 仕方なく、また家に戻り、タオルを取って来た。結果的にいつもより遅い入棟順になった。

 「俺もついに認知症が始まったか」

 

 看護師が来て、「今日の調子はどうですか?」と訊く。

 当方の答えはこう。

 「眼は見えねえわ、上手く歩けねえわ、おまけに認知症が始まったらしい。もはや絶望のズンドコ節だわ」 

 あるはずのものが無かったり、ないはずのものを「ある」と思い込むのが認知症の初期段階だ。

 タオルは一度手に持ったのだから、「ついうっかり」の次元ではない。自分には別の危機が来ているのだ。

 

 処置の順番を待っていると、若い看護師がやって来た。二十台の男でほとんど話をしたことがない。

 田舎出の看護師や、女性看護師とはあれこれ話すわけだが、二十台の男とは接点がない。

 「のらぼう菜は何処に生えてるのか」という話題をしたところで、相手の世界観の外の話だ。

 都市生活者であればなおさらで、「田舎ならでは」のネタを持っていない。話題の糸口が無いから、自然と話さなくなる。

 だが、そういうのは「自分本来のスタンスではない」と思う。

 そこで、とりあえず、その看護師に訊いてみた。

 「結婚してるのか?」

 すると、その看護師がこう答えた。

 「いえ、独身です。でも」

 「でも、って?」

 「九月にプロポーズするつもりなんです」

 「そりゃ良かったね。で、何でまた九月まで待つの?」

 「ディズニーランドに行き、そこでするつもりなのですが、ホテルの予約が取れるのがそれくらい先になります」

 「そりゃよかったね。楽しみだ」

 ひとは自分の関心事に触れると、訊かれてもいないことを語り出す。占い師はそういうのを利用し、飯の種にする。

 その相手(客)の関心事をさぐり、その期待に沿う流れで助言をする。経験数が増えると、顔を見ただけで、その相手の世界観や価値観をある程度推測出来るようになるが、基本は統計だ。

 当方も仕事で何千人かを対象にヒアリング調査を経験したが、やはり顔を見ただけで、一定の推測が出来るようになった。

 職業や家族構成、趣味嗜好など、似た要素が沢山ある。

 もちろん、あくまで統計で細部はその人その人によるわけだが、嗜好や性癖には共通性がある。

 「普段は彼女と喧嘩したりするの?」

 「ええ、しょっちゅうですよ」

 「そりゃ良かった。本気で喧嘩できる相手は、心を許す相手ってことだ。それなら、ディズニーランドで喧嘩してせっかくの求婚旅行が飛んでしまうこともないだろうな」

 環境が変わると、気持ちが尖るから、世間には新婚旅行の旅先で喧嘩をしてしまい、帰国してすぐに離婚するケースがある。

 普段、喧嘩などしたことのない「仲の良いカップル」ってのが、一番危ない。経験がないだけに、「この辺で収めるべき」という頃合いが分からない。

 「でも、気を付けてね。女性は疲れると我儘になるもんだから、君の方が心を広く持つことだよ」

 

 ああ、こういうことをフェミの前で言いたいな。もっと押した表現をして、フェミ族の額に血管が浮くのが見たい。

 叫んでくれれば最高だ。

 「いやあ、これは配慮が無くすいません」と頭を下げつつ、「してやったり」だ。何事もやり過ぎるヤツ、行き過ぎるヤツは滑稽な存在だ。

 あの世を突っ込み過ぎる当方も、やはり滑稽な存在だ。

 だが、フェミはある意味「常に攻撃に晒されている」という自覚があるから、関わりの薄いも者にとっては過剰反応に見える態度を示す。

 

 で、逆にだから、からかうと面白い。ひとが真剣に主張するさまは面白おかしい。もちろん、この場合は、「困難に立ち向かっている当人を除く」ことが必須条件だ。被害者を笑ってはならぬのは当たり前だが、当事者でもないのに、何でもかんでも価値観の尺度を当てはめようとする者がいる。

 他者にはその人の考えがあるのだから、自分の価値観を強制し過ぎるのはおかしい。もちろん、ここは強制「し過ぎる」場合だ。

 女性の容姿については褒めることさえハラスメントだと言う者がいる。でも、そういう者はオヤジの「ハゲ」も同じ理屈でハラスメントになるとは思わぬのか。「ジジイ」は?「でぶ」は? これじゃあ、きりがないぞ。

 他人と共に生きることには、一定のハラスメントが必ず含まれる。

 何故なら、ひとはそれぞれの人生を生きているからだ。

 他者の立場など分らない。分ったようなふりが出来るだけ。

 

 しばらく後で、看護師のユキコさんがやって来た。

 山家の育ちなので、当方とは価値観がぴったり。

 最上級のもてなし方をするので、時々、周囲からからかわれる。この場合、好き嫌いは関係なく、同じ価値観で生きているからだってことに気が付かない者がほとんどだ。

 「俺はもう文字が見えぬし、血管障害でよく歩けない。おまけに認知症も始まっているから、もはや要介護老人だよ」

 「ええ。そんなことはないですよ。老人っぽくなんか全然ないですもの」

 「そりゃあけっぴろげなだけでしょ。朝から下ネタ全開だもの」

 昔から、口を開けば下ネタを言うジジイはあちこちにいたもんだが、当方の下ネタは背景とか裏にある「こころ」が対象だから、嫌らしくは聞こえんだろ。 

 ユキコさんは五十台後半なのだが、体型が若くて、五十歳より下に見える。ほっそりしているがきちんと凹凸がある。

 着るものに不自由がなく羨ましい。

 体型が整っていると、リサイクルの五百円で買ったシャツでも、ブランド品に見える。

 

 最近は治療が終わると、かなり苦しくて、その後は殆ど横になっているようになった。血管年齢は七十台後半だが、ちょうどそのくらいの患者の状況と変わりない。

 六十くらいの人はまだ元気で、治療にも耐えられるが、治療自体が苦しい。客観的に「有機体としての終末」がほど近いと思う。

 「この状態で、どうやって戦闘体勢を整えるかだな」

 

 これまでの人生の多くが「負け戦」だった。何ひとつ満足のゆく成果はない。

 今回、頭を坊主にしたのは、無意識に自分を「七人の侍」の勘兵衛になぞらえていたからかもしれん。

 時々、頭を搔き掻き、「いやあ、いつも負け戦でしてな」のセリフを口にする。

 

 午後八時になり、娘を迎えに駅まで行った。

 車を停めると、先に娘を行かせ、当方はゆっくりと歩いて家に向かった。足が悪く、普通の人の半分の速さでしか歩けない。

 昔から常に困難を抱えていたが、若い頃にはそれを隠していた。十数年前に病気をした直後など、三十㍍歩くごとに立ち止まり少し休まねばならなかったから、「まだその頃よりはまし」だと思う。

 家の前の街灯の近くを通ると、この日の影はふたつあった。

 左右の影のかたちが違うから、ひとつは当方のものではない。

 「玄関口までだからな。中には入るなよ」

 それと分かるのは一体だが、その後ろに行列が続く。

 当家の玄関口にはお清めの塩が備えてあるから、それを作法に従って振り、中に入った。

 初めて「影二つ」を目にした時には、文字通り「震えた」が、殆どは何もしないことが分かり、今は平気になった。

 人間にも良い人悪い人がいるように、幽霊にも色々な者がいる。ひとも幽霊も大半は「普通の人」や「普通の幽霊」で、凶悪犯や悪霊は僅かだ。幽霊は基本、人間と同様の存在で怖ろしいものではないが、場合によってははるかに怖ろしい面もある。その「はるかに怖ろしい」面とは、「人の一生には区切りがある」が、幽霊には「終わりがない」ということだ。この世あの世で障りを得たら、それには終わりがない。

 ま、幽霊たちの多くは何年も何十年もそのままの姿でいる。

 自分が死んでいることすら分からず、ぼんやりと生前と同じ振る舞いを続ける。これが怖ろしい。変化がなく、本能的に行う行動のように、同じことを繰り返す。

 今日と同じ障りの日々が際限なく続く。

 たまに近くを通りかかる光があれば、急いで飛びつくのは当たり前だ。

 当方のような者はあの世と関りを持ちやすく、幽霊の側からよく見えるようだ。

 幽霊よりも生きた人間の光の方が強いので、あの世に近い人間には幽霊がわんさか寄り憑く。

 

 扉を閉めつつ、「俺にとって、これが現実なのだから、己なりの道を進むしか方法はない」と思った。

 「オレ(俺)教」の教義のひとつは「己を救うのは己のみ」だ。

 だが、これってやはり修験道の仲間だわ。幾度同じ修験者の人生を繰り返すのか。

 「白衣観音教」みたいな宗教を開き、生き死にの有体を語ったら、当方の仲間には助けになるかもしれん。

 何となく、当方の傍にいる白衣の巫女が「前にもそうしたのだから信者を率いよ」と示唆しているような気がする。

 だが、当方にはそんなつもりはない。

 亡者が数十万も控えているのだから、それだけで手一杯だ。

 それに、生きている者は瞼を固く閉じて開かぬ者ばかりで、話にならない。