日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎違いは歴然

◎違いは歴然

 八日の画像(651)の中で、「女」について言及したが、不鮮明でも違いは歴然だ。ほぼ同じ時刻(差は一二分内)に撮影した画像を並べてみると、左→右の順に撮影したが、私の頭の部分には違うものが映っている。

 左側では私の顔の前に、大きな女の顔が見えており、私の顔を隠している。

 この女は最近拾った者ではなく、前々から近くにいた者のようだ。前にも見たことがある。

 他にも幾つか痕跡があるが、そちらはあまり影響がない。

 

 右側の画像を少し引いたものが二枚目の画像だ。

 幽霊が姿を現す時には、概ね周囲の光への物理的な影響を生じさせるようで、景色が不規則な歪み方を見せる。

 割と分かりやすいのは、「私の左右の手のサイズ」「背景の屋根のかたちがぐしゃっと崩れる」箇所などだ。逆に言えば、人影が見えずとも、このように景色が歪んで見える時には、「幽霊が傍に来ている」と思えばよい。

 

 こういう見え方に慣れて来ると、「まるで水面が波立つように景色が揺らぐ」のを目視するようになる。その中心から離れぬところには幽霊が立っている。

 さらに、何百枚も見ているうちに、かたちがはっきりと分からずとも、「そこに何かがいる」のが分かるようになる。

 いつも繰り返して言うが、映画の『プレデター』の宇宙人のように、景色の中に紛れてはいるが、人型に近いゆらぎがあるので注意深く見ているとそれと分かる。

 

 さらに、「その幽霊がどれだけ強力か」ということで、見え方も変わって来る。強い自我を保持したままの幽霊は、かたちが鮮明で、かつ周囲への影響力も強い。

 幾度も記して来たとおり、私は自分をあの世に連れ去るために現れた二人組に会った。いわゆる「お迎え」の類だが、初対面の時に一瞥で「これはこの世の者では断じてない」という確信を得たのは、その男たちの周囲の景色がまるで画面が揺らぐように波打っていたからだった。

  ホラー映画に出て来るような悪霊、怨霊は、まだ人間に近い感情を持っているように描かれるのだが、筋金入りの本物の幽霊は、人間の心とはかけ離れた内面をしている。

 あの威圧感は桁外れで、ホラー映画の怪物たちが「かわいく思える」ほどだ。

 

  左肩に乗った女は、のしかかるのを止めたのだが、今もすぐ後ろに立っている。

 近々、私は知人に会うのだが、昨夜はそれを妨害しようという意志を示した。

 どうやら私を「自分のもの」だと見なしているらしい。

 ま、生きている女の嫉妬心よりかは単純だし、直接的な表し方をしてくれるので、対処のしようはある。

 

 少し困ったことと言えば、もはや何千枚も「ゆらぎを見渡す」「霧の中を見通す」ことを経験しているのだが、画像だけでなく、次第に目視でもこの「ゆらぎ」や「影」が見えるようになって来たということだ。経験によって開発されて行く面もあるということだが、あまり嬉しいことではない。

 画像なら「たまたま」や「気のせい」で片づけることが出来るのだが、現に目視している状況は否定し難い。目の前に、多くは人の後ろにそれが立っているのがはっきり分かる。

 画像だけなら否定できても、現実にやたら肩が重いわ、手を掛けられている触感があるわ、酷い時には間近で声が響いたりする。かたちは信用できぬわけだが(錯覚)、「ゆらぎ」には必ずそれなりの理由がある。

 

追記)ちなみに「煙玉」は自然現象で、その発生要因は「水蒸気」「光」「埃」と、「原因が分らぬ何かの影響」などがあり、あの世現象が現れる時にもたまに生じることがある。最後のは付帯的現象であって、あの世現象そのものではない。

 もうひとつ「黒玉」という表現をすることがあるが、これは「マイナス域の煙玉」だと思えばよい。こちらは、ほぼ幽霊の本体なので扱いには気を付ける必要がある。