◎参拝のフルコース(653)
背中に手を当てられている感触があるので、いずれにせよお寺に行かねばならない。
それなら、いっそのことフルコースで回ることにした。
まずはN湖だ。そろそろ湧き水を汲み、体内の循環を良くする必要がある。
途中でお弁当を買って、到着するや否や湖畔で食べたが、ここで食事をするのは八か月か十か月ぶりではないか。
それだけこの一年間は調子が悪かったということだ。
ま、四月五月には、自分でも「もうおしまい」だと思っていた。
十四キロくらい痩せたが、飲まず食わずで酸素だけ吸っていたのでは、数か月でそうなる。
周囲を見て回ったが、湖岸工事が進んでおり、前とはかなり景観が違う。
ここにはあの世に繋がる「穴(結節点)」があったのだが、物理的な変化はどういう影響を与えるものなのか。また時々、見に来る必要がありそうだ。
「どうしてもここを出られるにいる者は、私の後ろをついて来ると良い。お寺と神社に行くから、いずれかで降りろ」
この時には気付かなかったが、実際について来ていたようだ。
まだ午前中。そのまま飯能の能仁寺に向かった。
入り口の坂は勾配が十度くらいなのだが、つい半年前にはこの坂を上れずに、三度四度と足が止まった。
今は体力が回復しつつあり、休まず一気に上まで・・・、とは行かずやはり途中で一度休んだ。ま、苦しかったころと違い、心臓の不調からではなく、足の筋肉が落ちたせいだ。
お焼香をして、「団体旅行のツアーガイド」よろしく、「さあここで皆さん降りましょうね」と合図をした。「ここに残り、毎日供養して貰うといいよ」。
そして不動堂で日頃の御礼を述べた。春に私を導いた「お師匠さま」は、お不動さまの使いだと気付いていたのだ。
もちろん、お不動さまは、人型の火炎を背負ったあの姿ではなく、あくまで「理念」なのだが、あの世のルールでは当人が思い描いたイメージが世界を構成する。主観的に作られる世界が、パラレルに重なっているのがあの世だ。認識が楽になるなら、別に擬人化してとらえても問題はない。
能仁寺を出ると、次はトラの神社に向かった。
正直、順番が逆で、先に神社に参拝してから、最後にお不動さまにお礼をするのが筋だと思う。だが、朝から遠出し、少し疲れ気味だったので、道順に進むことにした。
神殿のガラス窓に私自身と景色を映すと、やはりぐるんぐるんと景色が歪む。
幽霊の気配が各所に出ているわけだが、半ばは私が連れて来た者たちだ。
ひとつところに留まるよりも、収まるべきところに収まる方が良いので、幾らかは足しになったかもしれん。
でも、やはりこの関りは甘くない。
まだましなヤツも、性質の悪いヤツも、皆が一気に寄り集まって来るから、厄介事に発展したりする。
それもある程度は仕方がない。
自分については、いずれにせよ、業を抱え込むことなく適宜下ろす必要があるのだから、そのついでに迷える魂を拾って送り届ければ、何がしかの善行になるだろうと思う。
追記)ここだけ読むと、もはやすっかり「イカれたヤツ」なのだが、現実に起きることの方がイカれている。スマホからしわがれた男の声で「憑いた。憑いたぞ」と言う声が響くことなどは、まだ軽い方だ。警戒心が強くなるので、危惧の方が先に立つ。
ま、今年は生きて年を越せさせすればで十分だ。