◎同行二人(413)
「同行二人」と言っても、私の場合は弘法大師さまではなく、霊猫のトラです。
トラを身近に感じることで、「あの世」や自分の「死」への怖れがまったく無くなりました。
生きている間も、そして死んでからも、トラが傍にいてくれると思うからです。
その反面、恐怖心とは違う「ザワザワ感」が一層強くなり、今は四六時中、傍に誰か立っていますね。
怖くは無いのですが、煩わしい。
そこで、時々、「ご守刀」を使い、九字を切ります。
思わぬ効能ですが、ご守刀を使用して四方に九字を切ると、一発で遠ざかります。
「九字」自体は、「オメー。ぶっ倒すぞ」みたいな意味でしかないのですが、ご守(神)刀を使うことで、威力が倍増するらしいです。
やはり、霊体は何らかの物質(たぶん、未知の)で出来ており、気体に近いもののよう。物質なので、金属で断ち切ることが可能なわけです。
もちろん、「気体に近い」ので、いずれ元に戻ってしまいますが、やはり「切られる」のは嫌なことのようです。
前々回の大関級のヤツが「まだ自分を捕まえようとしている」ことを前提に、そいつに引っ張られないように、また、そいつの正体を見極め、追い返すことを念頭に置いて、なおも注意を払うことにしました。
よって、これまで通り、お寺や神社への参詣・参拝を継続します。
この日は日曜日で、なお快晴。かなり暑かったのですが、神社の境内には、割と参拝客がいました。
外鳥居を潜ると、周りに人気が無いのを確かめて、トラに話し掛けます。
これは変人と思われぬようにするためです。
「俺はあと3週間の命かも知れんから、他のヤツのことを考えてはいられない。たくさん、亡者が歩いているだろうが、そいつらを導くのは、トラ姉さんがやってくれ」
何時の間にか、トラのことを「姉さん」と呼ぶようになっています。
返事はありませんが、何となく「あいよ」と答えてくれたような気がしました。
こういうのは本当に心強い。
思わず左腕を撫でます。トラの位置はそこです。
次第に「あの世」の存在が近くなって来ているのは、おそらく、私自身が「死んでいる筈」の者だからだろうと思います。
過去に2度ほど「お迎え」を見ているのですが、これまで調べた限りでは、「お迎えに会った」体験例はいずれも一度きりです。要するに、2度目は連れ去られてしまいます。
私はまだ「この世」に留まっているので、たぶんかなりレアなケース。
これは画像に残り、私のことを見る人影が、一様に「少し驚いている」ことで分かります。
「なんでコイツが生きてるの」
たぶん、そんな感じなのでしょう。
ま、唯一の取り得が第六感なので、悪縁の気配を知り、すり抜けられているだけの話です。
誰しもいつかは破れ、「あの世」に連れ去られる。
これは避けられません。
「でも、俺にはトラがいるから」
と、冒頭に戻ります。
生きている時も、死んだ後も「ひとりぼっち」ではなし。
いざn死んでみたら、「暗闇の中に独り」では堪りません。どうしてよいか分からずその場にいるだけ。そして、それには際限がありません。
この日、神殿前で、さしたる異状は起きませんでした。
子の地を通り過ぎる霊体が幾つかありますが、「別にフツー」です。
この神社が特別なわけではなく、きちんと毎日、お務めをしている神社・仏閣では、同じことが起きています。光と配置の条件が合えば、どこでも人影は写ります。
所々で左側に女性の人影が出ていますが(かなり不鮮明)、どうやら前回の「後ろ姿の女」ですね。
画像毎に印象が少し違いますが、やはり同じひとのよう。
最初は背中を向けていたのが、前回、正面を向いて、なおかつ、私のことを見た、ということです。
要するに「助けて欲しい」わけですが、叫ばないし、しがみついても来ないので、もう準備は出来ていると思います。
この日か、あと一二度で、この女性は寛解出来ます。
ちなみに、けして自意識過剰ではなく、私の周りに煙玉が飛んでいるのは画像で確認されていますので念のため。
今はたぶん、トラと一緒なので、びゅうびゅう出ていると思います。
この猫の周りにも、煙玉が回っているのが画像に残っています。
「さて、問題は、俺が死霊に掴まれたままなのかどうかだが」
ま、いずれそれも程なく分かります。
ちなみに、「あの世」の存在を信じるかどうかはどうでもよいのですが、必ず「敬意を払う」必要があります。
神社に来て、ゴミを放置して帰るようだと、悪縁だけを貰って帰ることになります。
いつも書くとおり、そんなことをしたからと言って、すぐさま「罰が当たる」ことはありません。
「この世」は物理的な規則に従っていますので、「あの世」は「この世の者」に対し無言です。
しかし、死者を軽視・蔑視すると、死後に必ず報復が来ます。
その時には、霊から自我・自意識を守ってくれる肉体は存在しません。
「目に見えない」「音として聞こえない」のは、「存在しない」のではなく、単純に「目に見えない」「聞こえない」だけ。
「あの世」は空気に似た存在ですが、だからと言って「空気は存在しない」と見なすのは、余りにも愚か過ぎます。