日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎再点検してみると

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2月中旬撮影

◎再点検してみると

 この数日、どうもトラブルが続き、家族の不和も絶えない。

 「おかしい」と思ったので、最近の状況を再点検してみることにした。

 すると、わずか数日分遡るだけであれこれ見つかった。

 

 いつも同じ神社の同じ場所、同じ位置で、ガラスに映る自分自身を撮影している。

 これはもはや何百回になったか分からぬほどだから、今は少しでも違いがあればすぐに分かる。もちろん、そのために頻繁に参拝しているわけだ。

 しかし、そういう私でもこのところは異変を覚えなかった。

 あまり天気が良くなかったせいもあるし、時間帯をずらしていた。通常、午前午後とも2時半から4時くらいの間が「あの世」観察に適している。

 また、ある程度経験のある私でも見落とすくらいの不鮮明な状態だったということだ。

  よって、ほとんどの人が認識できないと思う。これが見えるのは、かなり可視域の広い人だ。そういう人は、日頃から視界を「何か」が横切ったり、誰もいない場所で人影を見たりしている筈だ。世間一般に言う「霊感の強いひと」「第六感の働くひと」になる。

 

 まずは2月14日。

 この時は、例によって、向かって左後ろから、白いノースリーヴのワンピースを着た女が私の胴体に手を回している。これは以前にもあり、女はその時と同じ服装をしている。『バス停留所』か『七年目の浮気』の時のマリリン・モンローと同じいでたちだ。

 参考までに、昨年十月にも「白い女」は私にまとわりついている。

 顔の線が前の女と違うので、「御堂さま」ではないかと思ったのだが、「御堂さま」はいつも白い着物だし、別のものだろう。やはり十月の女だと思う。

 これはまあ普通にある。

 撮影時に検知できたのはここまでだったが、よく見ると、私の胴体が隠れているのは、右側やお腹の辺りにも女がしがみ付いているからだった。

 それぞれが手を回して、私を掴んでいる。

 この日、私は全身黒い服だったのだが、周囲を囲まれたせいで、顔の一部しか残っていない。

 幽霊と人間が重なると、相互に打ち消し合い、姿を消し去ってしまうが、これもたぶん、その類だろう。

 

 次は16日。この日も曇天。

 これは私もこれまで認識出来なかった。

 死者の隊列は、前にも幾度か現れたことがあるし、人の合間に顔を出すことも多い。

 だが、これではいかにも不鮮明だし、気配もほとんど出ていない。

 こういう認識しにくいヤツが、実は「性質の悪い」ヤツらになる。

 よくよく凝視して、初めて「それではないか」と思うほど朧気だ。気配が薄い。

 

 幽霊が取り憑くのは、専ら「心」に対してだから、心を同化同調させることで、「怒り」や「悲しみ」「苦痛」を増大させる。結果的に、本人だけでなく、周囲の家族や知人にまで及ぶから、自然と不和が絶えなくなる。

 

 原因を見つけたので、この対策として、神棚から御守刀を下ろし、周囲の悪縁を断つべく祈願した。

 御守刀は工作用の小刀が最も使い良いようだ。

 目立たず、ご近所から「危険人物」と思われることもない。

 しかし、この簡単な祈願をするだけで、ぱあっと心が晴れ、穏やかになる。

 

 いつもの繰り返しになるが、対応の仕方について助言する。

 1)「あの世(幽界)」は普段は目に見えないが、空気と同じ。見えないもの、聞こえない音を「存在しない」と見なすのは誤りだ。「あの世」の事象はそもそも可視聴域の外にあるが、時々、振り子のように可視聴域に入って来ることがある。

 

 2) 「空気が何故見えないのか」を説明しようとするよりも、「どのように関わっているか」を知る方が賢明だ。「現象」として受け入れることで、上手に付き合うことが出来る。「あの世」との付き合い方は「車の運転」と同じ。

 自動車の構造を逐一理解せずとも、運転することは出来る。

 機関部に頭を突っ込むと、そのことで生じる問題も多いので、まずは「無難に運転すること」を心掛けるべきだ。

 

 3)事故を起こさぬためには、基本的な運転ルールを守ることが第一。

 死者には必ず敬意を示す必要がある。立ち入ってはならぬ場所もある。多くは交流点だ。まれに、事故が向こうから飛び込んで来ることがある。よくよく注意し、警戒を怠らぬこと。早めに気付けば対処のしようはある。

 

 4)恐れていては運転は出来ないから、怖がり過ぎぬこと。

 「こんな恐ろしい事故がある」と吹聴する者もいるが、それを聴く必要はない。現実には事故は起きているが、万にひとつ。これまで語られて来た「あの世」に関する話は、大半が作り話だ。

 よって、単に運転方法を習熟し、「乗りこなせばよい」ということだ。

 「恐れ」が「悪意ある者(悪縁)」の道具だから、「どうということはない」と考え自ら対処すること。ただし、けして軽んじたり、好奇心を向ける対象としてはならない(3に同じ)。