◎夢の話 第1K76夜 わたしです
三十日の午前三時に観た短い夢です。
通院から戻り、夕食の支度をしたが、この日は体調がイマイチで、居間で腰まで寝袋に入ったらすぐに寝入っていた。
眼を開くと、すぐ前が水面だった。
「ばちゃん」と音がして、顔に水が当たる。
俺はすぐにそのまま水中に沈んで行く。
すうっと気が遠くなる。
次に眼を開くと、すぐ目の前が水面だ。
「ばちゃん」と顔が水に突っ込む。
俺は水中に沈み、意識が暗くなる。
また眼を覚ますと、「ばちゃん」。
眼を覚ますと「ばちゃん」。
水に落ちる瞬間に下を向き、自分の足先の方を見た。
すると俺は白いスカートを穿いていた。
「あれ。俺は女だったのか」
延々と同じことを繰り返す中、次第に覚醒。
目覚めてすぐに気が付いた。
「あれは首を吊ったわけではなかったのか」
スカートに見覚えがあり、それが三年前の「看護着の女」だということに気が付いた。
体勢から、すっかり縊死した者だと思い込んでいたが、どうやら身投げをしたようだ。
よほどのことが無い限り、「自死してはいけない」と言うのはこのことによる。死に間際にどういうことを考えていたかは、非常に重要で、この時に念が凝り固まっている状態だと、その念に囚われてしまう。
死に間際の考えが執念となり、死んでからも「死に間際」を繰り返す。
自死者の幽霊がその時の姿のままでいることが多いのはそのためだ。
久しぶりに「看護着の女」のことを思い出し、画像を注視したので、その女が「わたしです」「わたしのことを思い出して」と言っているのかもしれん。
ま、床に座ってすぐに寝入ったので、「癒し水」を供えることが出来なかった。そこで、テレビ台の前に水を供え、そのまましばらく待った。
心身が少し軽くなったのは、それから四十分後くらいになる。
たった「水を供えて慰める」だけのことだが、これをやるとやらぬとではまるで違う。
この一週間くらいは、心も体も軽かったが、どうやらこれから「皆さん」が戻って来るようだ。
以下はその一週間ほど前の出来事。
治療前に体重を計測し、適正体重までの除水量をセットした。
実際に除水が終わった時に生じる誤差は100グラムくらいまで。
ところが、この日は何故か300グラムほど設定体重より減っていた。
「なんでだろ?」と看護師が数人集まり首を捻る。
100は誤差としてもまだ200足りない。どこへ消えたのか。
ここにN湖傍在住のユキコさんがいたので、他の看護師が離れた際に冗談を言った。
「魂の重さは15グラムから20グラムだというから、十体くらい居なくなったかな」
実際、心身が軽くなっていた。
この手のブラックジョークが言えるのはユキコさん相手だけ。
今は全然笑えない。サービス週間は終わり、また呻き声を聞かされる日々が戻って来る。
追記)たまたまある人の写真を目にすることがあったが、それでその人が「うつ病」に苦しんでいることを知った。
1)実際の画像、2)目視する時、3)波長が合った画像で、見え方が違うが、私は見慣れたので、その人が「背後から両耳を塞がれている」ように見える。
その人が聞こえるのは、後ろにいる者の声だけなのだから、前向きの考え方が出来るわけがない。
薬を飲んでも治りはしない。まずは耳を塞いでいる手を除けることからだ。その最初のステップは、家のドア付近や車の運転席に各々、小さい鈴(りん)を取り付け、時々、鳴らすようにすることだ。鞄や財布に小さい鈴(すず)を付け、動くとチリンと鳴るようにする。
最初は煩いが、すぐに聞こえなくなる。音が聞こえなくなったら、次の手順に進む。
だが、「うつ」の人にはその助言が届きにくい。既に耳が塞がれているから、他人の意見が入って行かない。
私は「うつ」の人が嫌いで、極力近づかないようにしている。
その理由は、その人の後ろにいる者が私のことを見ると、必ず「あっちに乗り換えよう」と思うからだ。よって、顔を合わせた瞬間に、目の前の人以外の「誰か」がまじまじと私を見ている気配を感じる。
自分にしか興味が無く、かつ他人の言葉を受け付けぬ患者が抱えた悪縁を、何故私が引き受けねばならんのか。
本人はそのことにまったく気付かぬし、知らぬのだから感謝もしない。それどころか悪意を持って私を眺める。これには行きがかり上、そうなる理由がある。(面倒なので解説は無し。)
自分のケツは自分で拭けよな。
私のことを憎んだり疎んじたりして、傍に来ないでくれた方が助かる。
御前様の心が晴れぬのは、御前様自身のせいでも、他の誰のせいでも、環境や境遇のせいでもなく、後ろに寄り憑いたヤツが両耳をひしと塞いでいるからなんだよ。
早くそれに気付け。
追記)ガラス映像を数千枚も見ていたら、普段から時々②が見えるようになった。
そういう時に撮影すると、きちんと③みたいなものが出るから、幽霊の本体は霧のようなガス状の物質のようだ。目に見えぬ「霧」が「時々、実体化して人の姿になる」という見立ては、案外正しかったようだ。